死ぬ瞬間の5つの後悔
こんばんは。
僕は、いかに生きるべきか、いかなる人間であるとよいかを考えるのが好きです。
それは一生をかけた仕事(ライフワーク)だと思うほどです。そのように考えることになったきっかけは、自分が生命の危機に瀕した経験があることや、そのことによる苦しい治療を経験したからです。
幼い内に生命の危機に直面したので、おそらくは同年代の人々があまり考えないようなことずっと考えてきたと思います。(特に10代の内は)
それが、自分がソーシャルワーカーを志したきっかけでもあり、今こうしてカウンセラーの道を歩んでいる動機づけにもなっております。
僕が高校生の頃、Mr.Childrenの『花』という曲が大ヒットしました。本格的にミスチルにハマったのは大学生になってからでしたが、メメント・モリという副題がつけられておりました。
メメント・モリ(羅: memento mori)は、ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」「人に訪れる死を忘ることなかれ」といった意味の警句。芸術作品のモチーフとして広く使われる。
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儚く散る花に「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」との意味を込めていたのかもしれません。
自分がいつか死ぬのだと理屈で理解するのではなく、僕は実際に、肌感覚で体験したので妙に心に沁みる歌となりました。そして、まさしく死を思ったからこそ「いかに生きると良いのだろうか」ということをずっと考え続けてきたと思います。
それは、今でもソーシャルワーカーとしての、カウンセラーとしての原点となっております。
『The Top Five Regrets of the Dying(死ぬ瞬間の5つの後悔)』という有名な図書があります。
僕は直接に手に取って読んだことはなく、主にネット情報で内容を知った程度なのですが、とても考えさせられる内容です。
この図書は、終末期ケアに携わったオーストラリア人看護師のBronnie Ware(ブロニー・ウェア)氏によるものです。終末期のケアですから、死を目前にした多くの人々と接してきたことは言うまでもありません。彼女曰く、ほとんどの人は死の間際に人生を振り返り、その時に「後悔や反省」の言葉を残すといいます。
ちょうど五つあるので、一日一つずつ見ていき、個人的な雑感をつらつらと書いていきます。
The Top Five Regrets of the Dying(死ぬ瞬間の5つの後悔)
1. 人の期待に添うのではなく、もっと自分が望むように生きるべきだった
I wish I’d had the courage to live a life true to myself, not the life others expected of me.「自分らしく生きれば良かった」という後悔。彼女によれば、これが一番多かった後悔だそうです。ほとんどの人が、描いていた夢の半分も実現させられないまま病の床につき、強く無念を感じるようです。
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人は、どの程度に自分の人生を生きているでしょうか。
僕は個人的に「自分らしく生きる」ということをあまり意識しないで生きてきたと思います。何が自分らしいのか、何をすると自分が喜ぶのかを深く考えたつもりで、あまりわかっていなかったように思います。
何によって自分らしくと言えるのか、自分が自分らしいたらしめるものが何なのか。
私的な話ですが、僕は両親をがんで亡くしております。
いろんなことに耐え、家族を養い、子を育て、自分は大学にも行かせてもらうことができました。親には感謝しかありません。
非常に我慢強く、日々を粛々淡々と生き、自分よりも家族のために生きてきた両親だと思います。
両親が「がんで亡くなるのだ」とはっきりわかった時、やり残したことはないのか、自分の人生に満足であったかを聞いてみたいと思いつつ、とても聞けませんでした。いろんな思いを飲み込んで生きてきた両親の心の蓋を勝手に開けて、最後の最後で自分を保てなくさせてしまうのではないか、そんなことを潜在的に恐れていたように思います。
上記の項目一はオーストラリアの社会にあっての内容だとは思うのですが、日本社会にもそのまま当てはめて良いものなのか、いささか迷うところもあります。
ただ、それでも思うのは「自分が望むように生きる」ことをできる限り早い内から真剣に考えることをしていないと、世の中の流れや雰囲気、周囲の期待、世間一般、常識と言われるものにあっという間に飲み込まれて、自分を見失って生きることになるのではないかと思います。
こういったことはなかなか教わることもないと思います。また、どこかに正解があるわけでもありません。自省したり、本を読んだりしながら、こういった哲学的なことを考えるより他はありません。
2008年にがん哲学外来というものが提唱され、始まりました。
治療であるカウンセリングとも異なり、医師が患者やその家族の悩みを聞き、同じ目線に立って"対話"をする場だと樋野は説明している。悩みの「解決」ではなく「解消」することが目的である。対話により、その人の中での悩みの優先順位が下がれば、それを問わなくなるが、樋野はそれを「解消」と呼ぶ。
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ここにはいろんな意味が含まれていると思いますが、僕が上記に書いたような内容も語り合う場として含まれているのではないかと思います。一つ一つの意味を確認していきたくなるのは当然だと思います。
むしろ、自分の人生に意味があったのだと思いたいのが普通だと思います。そこに価値を見出す対話は人生の最後には不可欠なのではないでしょうか。
そこには、医師や看護師、はたまたソーシャルワーカーやカウンセラーとしての肩書きを脱いで、一人の人間として相手と向き合うことだけが求められるのだと思います。
そして、当人と家族の対話も大事ですが、家族以外の第三者だからこそ話せる内容、とっかかりもあるのではないかと思います。
取り止めもなく書きましたが、心の内を言葉にして絞り出して、対話をしなければ、「もっと自分が望むよう」の中身を確認するのは容易ではないと思っております。しかしながら、自覚していない(見つけられていない)だけで、必ずあるのだと思っております。
投稿者プロフィール
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青森県八戸市・階上町を中心にカウンセラーとして活動しています。また、電話・オンラインカウンセリングもご利用いただけます。
普段使いのカウンセリング(日常の悩み事)と援助職のためのカウンセリングをご提供しております。
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