去り際の物語
こんにちは。
日常の悩み事「普段段使い」のカウンセリングの結い心理相談室です。
数多いサイトの中から、当事業所の記事をご覧いただきありがとうございます。
こちらの方の投稿が好きで、毎回見ております。
「うんうん、そうだよね」と思うことが多くて。これがきっと大勢のフォロワーがいる理由なのでしょうね。
X(ツイッター)は、「見なきゃ良かった」と思うような辛辣な言論もあったりするのですが、僕にとっては「この言葉(投稿)に出会えて良かった」と思えるものの方が多くて、日々、見ずにはいられません。
そこの中でしか語られない言葉、「心のひだ」のようなものがあって、くどくど文脈を作ろうとしなくても、単刀直入に伝えられるから、「思い」を言葉にしやすいのです。
話を戻して、先ほどの投稿。
気持ちがよ〜く分かります。
自分が優しいなどと言うつもりはありませんが、僕も「突然いなくなる」側だったから。そして、「去られた」こともあったから、いろいろ思うこともあって...。
僕も我慢に我慢を重ねて、「相手の良い所も探そう」などと無理を重ねて、その結果は心がポキっと折れるような感じになる。
それで本格的に「もう無理」「これ以上できない」となってしまう。
これらは自分にとっては理に適った過程なのだけれど、残念ながら相手からすると、見えないようです。だから唐突に感じているような相手の様子を目にしたことがあります。
そうすると、「何とか、前もって説明できなかったのだろうか」という気持ちにさせられる。しかし、その一方で「そこまで、やらないといけないことなの?」との気持ちも湧いてくる。
それが「できるか」と自分に問えば、「両立なんて無理」とまっすぐな返答が返ってきます。
常に我慢するほどに、終わり方について、相手との共有は、作れない。
だから、「突然いなくなる」は、やむに止まれぬ、その人にとっての生存戦略であり、「もう無理」「これ以上できない」の婉曲的表現なのだと思います。
そんでもって
なかなかこういうことは理解されなくて、しかし、心のどこかで誰かが分かってくれたら嬉しいとも思っていて
だから、さっきの投稿に出会えると、「分かってくれて、嬉しいよ」という気持ちになるのです。
そう言えば、僕の周りにいる人、いた人たち
去った理由を正直に言った人って、ほとんど見たことはない。
みんなオブラートに包んで去り際の言葉を残すけれど、それが本心ではないことくらいは、僕も周囲も薄々気付いてはおりました。
触れておきたいけれど、もはやどうしようもなく、今更言ってもどうしようもなかったりします。
やはり、途中の過程の中にしか、互いを労る機会は無かったのだなと思います。
労る
思いやる
その機会はいつでもある訳ではなくて、できる機会がある内にしておくと良さそうです。
何事も、相手あってのことならば、相手次第、相手の主権を尊重しなければなりません。そして、いつか関係の終わりを迎える時が来るかもしれませんが、終わりの物語を上手く作れたのなら、それはとても良いことだと思います。
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