「いいね」の本質
こんにちは。
日常の悩み事「普段段使い」のカウンセリングの結い心理相談室です。
数多いサイトの中から、当事業所の記事をご覧いただきありがとうございます。
今日は、良い文章に出会いました。
ふかわりょう氏は、素晴らしい文才と感性をお持ちのようですね。
僕は、仕事としてSNSをしているので
残念ながら、スマホのカメラを使わない訳にはいかない。
ただ、僕のささやかな矜持として
スマホに使われたくはない、と思っております。
だから、スマホのアプリは必要最小限。
今時、年配の方だって、もう少しアプリを入れてるぞ、と自分でも思う。
でも、できる限り、スマホを気にしないで生きたいのです。
少々の外出程度なら、スマホを持ち歩かないことはざらです。
スマホから解放されているって、意外と心地よいですよ。
この時期、海風で涼むと心地よいです。
そこで写真を撮っている方もたくさんいます。
決して、否定や批判をしたい訳ではありません。
ただ、スマホを使わない分、肌で、耳で
匂いで、海がより感じられるのは確かです。
多分、その分の脳内容量が、スマホの操作に持って行かれてしまうのでしょうね。
ところで、ふかわ氏の文面。
見ていて思うのは、目的と手段の逆転が起きているということ。
楽しい出来事があって、思い出となるのか
思い出を作るために、出来事を予定するのか
思い出って、狙ってできる訳ではない。
むしろ、何もしていない時でも、できたりする。
無理に「いいね(承認、肯定)」を作るのは
確かに不自然かもしれません。
不粋というか。
人の本来の気持ちに逆らっているような。
例えば、僕のブログ記事。
事業用だから、基本的にはカウンセリングや心や事業を伝えるのが本来です。
けれど、それだけだと
何だかつまらないのです。
僭越なのですが、書いていて
僕が面白いとか、良いねと思えるかも
とても大事なのです。
自己満足かもしれないけれど
僕自身の心が震えなければ
ましてや他人様の心に届くだろうかと
勝手ながら、思っています。
僕にとっての「良いね」が10個あれば
どれか一つくらいは、誰か共感してくれるかもしれない。
確率は低くても
本当の出会いって、そんなもんじゃないかな。
ふかわ氏の記事に賛同する意味で言いたい。
たとえ周りや世の中の「受け」が良くなかったとしても
自分が「いいね」と思えることがあると
嬉しくないですか。
僕は、人生をこじらせていると思われても構いません。
だって、多数が正しいなんて保証はないのだから。
自分が心から、自分の「いいね」を楽しめたら
それが現実、事実なのだ。
何を引け目に感じる必要があるでしょうか。
少数でも、多数でも、どっちでも良いのだけれど
自分が納得する道が一番ということ。
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