空腹なくして学びなし

こんにちは。
普段使いのミカタ・カウンセリング&支援者のミカタ・カウンセリングの中田雅也です。

この時期になると、昔はよく実習指導や学校の講義、研修会の講師をしていて、忙しい時期だったな〜と、ふと思い出します。

「教える」という行為は好きでした。一つの実践の目的や意義、極意を、どんな風に伝えると、相手に分かりやすく届くのか。
僕にとってはとても興味深い題目でした。

自分で言うのも何ですが「分かりやすい」「面白かった」としばしば評価をいただき、とても嬉しかったです。
同時に、僕の教え方というのは、相手にとって「分かりやすい」「面白い」と感じてもらえるのだなと認識できて、以来、丁寧に教えて間違いはないのだと自信になりました。

僕が、丁寧に、分かりやすくに拘るのは、自分がそうして欲しいからです。

雑だったり、よく分からない教え方をされると、聞いている方も辛くなります。教える側であっても、「これ、全然、伝わっていない」と思うと、かなり心理的には辛いです。「こんな風にしか伝えられなくて申し訳ない」と思うことは何度もありました。

一方、ただ丁寧に分かりやすくを心掛ければ通じるかと言えば、そうではありません。

教える行為は、教える側の努力だけでなく、教えを受ける側の努力が不可欠です。だから、教えてが頑張れば良いという単純な話でもありません。

学校で授業をしていて、一番苦心するは、実践経験のない学生に、いかに実践場面を想像してもらうかです。それができないと、ちんぷんかんぷんなまま。渋々、嫌々な時間となり、講師もかなり辛いです。

「空腹は最高のソース」という言葉があります。

空腹の時は何を食べても美味いという意味です。つまり、腹が減っていなければ、どんなに美味しい料理を出しても、美味しいとは思えないのです。

当たり前のことですよね。教わる側の立場もこれに置き換えられます。

「自分が本当に知りたい」という意欲がなければ、話を聞こうと思えません。
「自分が本当に知りたい」という意欲があると、前のめりになって、難しい話でも必死に食らいついてきます。

昔聞いた話です。

今はどうか分かりませんが、昔の職人、例えば料理の世界では、親方は弟子に手取り足取り教えなかったそうです。だから、弟子は必死になって親方の一挙手一投足を見て学んで、見て盗んで、必死に技を覚えたそうです。

今の時代ではそれは厳しいかもしれませんが、ある意味、理に適っていると思います。自分で見出だそうする意志と必死の努力があってこそ、技は本当の意味で習得されていくのだと思います。

そして、僕が教える場面においても、例えば、実習中、実習間際の学生、あるいは新人等の立場で現場で悪戦苦闘している者たちは、教わる時の目の色が他とは明らかに違って見えます。

必死さというか、食い入るような感じがあります。
今時、なかなか直接に質問する人は少ないですが、必死な人ほど訊いてきます。教える側にとっては、これがとても嬉しく、刺激になります。

わざわざ訊く程の心構え(準備)ができているなら、もう一段階、上の内容を伝えられます。これは、条件が整わなければできないことです。

教わる側も、自分の置かれた立場の課題があるので、必死です。これはまさしく、空腹の状態です。

「ガツガツした状態」となることは、とても重要なことです。

そして、大人になれば、物事の「妙」を学ぶために、人は必死になり、高額であっても確実に襲われる研修会等に投資します。

彼らは、自分の目標や課題解決のために必要であれば、「(良い意味で)何でもする」と、最大限の学びを得るための前提条件を満たした精鋭のようなものだと思います。

必死にならざるを得ない背景を思うと、必ずしも良いことばかりとは言えません。もっと、気楽に、のんびりしたかったのにと思うこともあるでしょう。

しかし、必死とは簡単にできることでもないので、その機会が来たら好機かもしれません。飢えた時、それはあらゆるものから学べる時かもしれません。

投稿者プロフィール

中田 雅也
中田 雅也結い心理相談室
あなたのミカタ(味方となり、強みを再確認し、見方を再構成し、やり方を一緒に考える)となって、ソーシャルワーク&カウンセリングを駆使して、あなたの今ここからの歩みをお手伝いします。