満ちてこそ

こんにちは。
普段使いのミカタ・カウンセリング&支援者のミカタ・カウンセリングの中田雅也です。

3歳前後の幼児が二人いて、一人の子供がおもちゃを手にして遊んでおります。

それを見ていたもう一人の子供の目はおもちゃに釘付け。「貸して」と微かに口が動く。
身振りから、おもちゃを使いたがっていることが相手の子供にも伝わったようです。

どうするのかな、取り合いになるのかな、と見ていたら、予想に反して、その子供がおもちゃをもう一人の子供に差し出しました。

嬉々として遊び始める、おもちゃを受け取った子供。
一方、貸してあげたその子は、急に泣き出してしまいました。おもちゃが自分の手元になくなったからです。

何の番組か忘れましたが、テレビで見た場面です。

微笑ましくもあり、人間関係の難しさを反映した場面であり、見ていてちょっと複雑になりました。

おもちゃを貸してあげた子供も、本当はもっと、そのおもちゃで遊びたかったのでしょうね。それは当然だと思います。

そこに大人が介入して「貸してあげたら」と言っても、あるいは「今使っているんだって」と言っても、きっとどちらかが泣いてしまったでしょう。

おそらくですが、最初におもちゃで遊んでいた子供が、飽き足りるほど、十分に満足するほどそのおもちゃで遊びつくしていたら、貸してあげても、動じなかったのではないかと思いました。

もう少し大きい子供でも、あるいは大人であったとしても、後腐れなくなく物を差し出せる時は、「たくさん持っているからいいよ」「もう使い倒したから、あげてもいいよ」と思える時ではないでしょうか。

単に飽きたというよりは、『満たされた』という感覚があることが不可欠ではないかと思います。

自分が飢えている時に、誰かに食料をあげるのは美談ではあるけど、そうそうできることではありません。普通の人間は、自分が満たされて初めて、誰かにお分かちできるのではないでしょうか。

余裕。
物以上に、心の余裕がものを言います。

大人になると、(子供でもいないことはないと思いますが)自分の心が渇いているにも拘らず、相手に奉仕して、ますます自らが渇いてしまう人がおります。

いわゆる「いい人」がそれです。

奉仕した相手は、実は自分よりも渇いていないかもしれないのに....。相手に尽くす人ほど、自分が実は満たされていないことに、自分が実はとても渇いて苦しんでいることに気付かないことがあります。

いわゆる支援する立場の人にも、しばしばそのような方をお見かけすることがあります。

もちろん、与えることで満たされる心もあるのですが、それも程度問題であり、均衡を欠いたらそう上手くはいきません。

自己犠牲を否定する訳でもありません。
しかし、今ここで、自分が壊れてしまって良いのでしょうか。
息が長く、活動する(支援する、手助けする)ことの方が大事ではないでしょうか。
あなたが元気で居続けることはもっと大事なことではないでしょうか。

どうして、あなたが渇いたままでいて良いでしょうか。

与える行為は、自分が満ちてこそ。

与えたり、奉仕するのは、満ちた人だから安定してでき得るのではないでしょうか。

与える人は、時々、自分の心を点検してみると良いでしょう。

投稿者プロフィール

中田 雅也
中田 雅也結い心理相談室
あなたのミカタ(味方となり、強みを再確認し、見方を再構成し、やり方を一緒に考える)となって、ソーシャルワーク&カウンセリングを駆使して、あなたの今ここからの歩みをお手伝いします。