脱ワーカホリックの方法

こんにちは。
普段使いのミカタ・カウンセリング&支援者のミカタ・カウンセリングの中田雅也です。

仕事の質は、人生の質に通じると本気で思っていたことがありました。確かに、無関係ではないとは思いますが。

仕事が自分の存在意義、仕事は自分自身、仕事の出来、不出来が自分の価値を左右すると本気で思っていたことがありました。

「何もそこまで追い詰めなくて良いのに・・・危ういな」と今なら心から思えるのですが、そうは思えなかった時期があるのです。

実際、眠っている時間を除けば、時間のほとんどを費やすのは仕事です。仕事が好きだったし、前のめりでいた時間が多かったです。むしろ、そうしたかったのです。

いつも上手くいけば良いのですが、そんなことはありえません。

どちらかといえば、というより、ほとんどは、仕事は大変で辛いことの方が多いです。その中でも、僅かな良いこと(例えば、手応え、人からの感謝、成長を感じる、認められる)があれば、それを糧に何とか頑張ってこれました。

仕事は自分の力だけでどうにかなることは少ないです。組織、職場の環境、世の中や業界の動向など、どうしても自分の力の及ばない領域の要素が大きいです。だから、どうしても翻弄されることが多いのです。

しかし、仕事が一番と思っているうちは、仕事の調子が揺らぐことは耐え難いのです。なぜなら、自分の存在意義、存在価値も揺らいでしまうから。

そのうち、心身ともに疲れ切って、仕事を一番としていることが辛くて堪らなくなりました。

僕の家族は、良くも、悪くも、僕の仕事には無関心でした。

正確には、「仕事をしている人」としての僕はどうでもよく、あくまで、「家族としての僕」だけの側面を見ていてくれたのだと思います。

だから、僕が昇進したり、光栄と思えるような役職を引き受けたり、大きな舞台に立ったりするようなことがあっても、あまり関心を示しませんでした。

『もうちょっと、喜んでくれたら良いのに。つまらないな。業界を知らない人には仕方がないか。』と何度も思ったことがあります。

ただ、僕が仕事を一番にしたことで苦しんでいる時、僕の仕事のことを知らない分、「ああだ、こうだ」と下手な助言をされることがなくて助かりました。

下手に僕の仕事を知っていたり、関心があったりすると、「ああ、大変なんだね」と察してもらう関わりをされるにも実は重荷だったりします。

「ちょっと、休みたい」と僕が言っても、「いいんじゃない」とあっさり返され、「本当に意味を分かっているの」と聞いたら、「疲れているんだから仕方がないでしょ」と普通に返された気がします。

つまり、僕だけが勝手に仕事と自分を同一視し、仕事が振るわないと自分に価値がないと勘違いしていたのです。

この思い込みから完全に解放されるまでは年単位で時間がかかりました。解放された要因はいくつかあるのですが、僕のことをあくまで、仕事ができているか否かの物差しでは見ない家族の存在は大きいです。

実際、仕事に関わる出来、不出来で自分の存在が浮き沈むするのは、考え方が偏り過ぎていると自分でも思います。実際、僕も家族が仕事ができる人であろうとなかろうと全く関係ありません。家族は家族として、元気でずっといてくれればそれで満足なのです。

また、よくよく考えれば、定年になれば、仕事から足を洗う時がいつか来ます。先の僕の考えに拠ってしまえば、仕事ができなくなったら、どうやって自分を支えようと言うのでしょうか。

仕事をしなくなったら、その人に価値がなくなるのか。否、そんなことは全くありません。

ワーカホリック、仕事依存症。

多分、この状態に陥っていたのだと思います。ちなみに、仕事自体が悪い訳ではありません。稼ぐためにも必要だし、社会を維持するためにも、他者のためにも仕事は必要です。ただ、それだけで自分を支えようと思った所から、道を逸れ、進むほどに苦しくなったということ。

ただ、「仕事が一番」だった状態から、「本当の一番」に気付いたから、自ずと仕事の順位が下がっただけ。それだけでも、見える景色が全く変わるから不思議です。

世の中に、僕のように苦しんだ人がきっといるのだと思います。何かおかしい、だけど、誰にどんな風に相談したらいいか分からない、とかつての僕も思っておりました。

すべては自分から解決に乗り出そうと思えた時が始まり。

時を超えて、場所を超えて、この記事が、僕と同じように苦しんだ人の目に届き、役に立てば幸いです。

投稿者プロフィール

中田 雅也
中田 雅也結い心理相談室
青森県八戸市・階上町を中心にカウンセラーとして活動しています。また、電話・オンラインカウンセリングもご利用いただけます。
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