最も辛かった業務
「辛さ」の性質
仕事に辛さは付き物です。
しかし、中身と程度によります。
ソーシャルワーク業務において辛かったことと言えば、いわゆる困難事例で、課題解決や課題対処がままならず自分の無力感を感じた時。
また、クライエントや支援チームに対しても、期待に応じきれなかった時。
厳しいお叱りを受けた時。
これらは確かに辛いです。
しかし、支援者のプロとしては、クライエントのことで悩むのは、辛さを感じるのは、ある意味仕事の内です。
強がりも含めて言えば、それで本望、と言わせていただきたい。
ソーシャルワーカーとして、クライエントの支援に全力で当たらせていただくのは、ある意味、幸福だと思います。
本分を全うできるのですから。
僕にとって、一番辛かったことは、ソーシャルワーク業務ができなかった時。
最も辛かったのは、苦情窓口業務。
この二つに関しては苦しかったです。
ソーシャルワーク業務ができなかった時
こんな副題ですが、別に干された訳ではありません。
部署の移動により、通常の相談業務ができなくなった時がありました。
ケースに触れることもままならずに。
実は、この時は、本気で退職を考えました。
クライエントに直接、接するのは、いわゆるミクロ単位でのソーシャルワーク業務です。
医療機関であれば、患者さんの支援、患者さんとの直接的な関わりです。
この時は、まだ経験も浅かったので、ソーシャルワーカー業務と言えば、ミクロ・ソーシャルワークが全てだと思っておりました。
だから、気分としては、試合に出られない競技選手の気持ちで、飼い殺しにされているような気分でした。
この時は、「地域連携」の言葉がもてはやされた時代です。
その地域連携をする部署の立ち上げを僕は担っておりました。
具体的には、院内の仕組み整備、地域の医療機関、福祉機関との連携の仕組み作りです。
当時、僕がやっている業務は、ソーシャルワーカーとしての業務なのか、事務としてなのか(ソーシャルワーカーであっても、組織内では事務の括りであった)が、分からず、そこから数年単位で考え続け、悩み続けました。
長い目で見ると、組織内では答えを見出だせなかったので、外に目を向けるようになり、全国のソーシャルワーカーの地域連携への関わり方等を知るようになったので、無駄だったとは思いません。
ただ、何も分からない時は、支援者なのに支援業務ができないことが、こんなにも辛いことだとは知りませんでした。
世の中に不本意な人事異動によって、辛い思いをするといった話は聞きますが、その気持ちがよく分かりました。
それをどう乗り切るのかは、とても難しいことです。
敢えて、数年我慢する
速やかに、転職する
どちらも一長一短です。
もし、組織上層部から、その立ち位置に置かれた意図を聞くことができれば、判断材料にはなると思います。
特に、干された訳ではなくて、「誰かがやらなくてはならない」業務を任されたのであれば、これこそ熟慮する必要があります。
任されたことの光栄さ、そして、それをやれると本人が思えるか。
僕は、何が何でも、組織にかじり付いて、粘るべきとは思いません。
そうかと言って、辛くて、嫌だからと、短慮な判断を下すのも良いとは思いません。
やることに、意義があると判断できるなら、やり抜くべきです。
そうではないなら、組織を離れることの一長一短を熟慮して、決断すれば良いだけです。そして、まだその時ではないと思うなら、忍ぶことも大事です。
いわゆる専門職は、職能業務に対する思いが強いです。
その業務に対する動機づけと、専門職としての自分をどう活かすか、上手くセルフ・プロデュースできると良いですね。
どんな決断であっても、熟慮の末なら、その熟慮過程は必ずや、その後、活きてくるでしょう。
苦情対応は辛いよ
どの組織にも、いわゆる苦情相談の窓口があると思います。
当時、僕は専任担当でした。
率直に、僕個人は、業務において、苦情を言われたことはほとんどありません。
ほとんど、と言うのは、実際には「無い」のですが、気付かない所で、あったかもしれないからです。
完璧なのではなく、上手くいかないことを挽回すること、相手の感情を読むことには長けていたので、苦情には発展しませんでした。
アンガーマネジメントでよく言われますが、怒りとは二次的な感情です。一時的な感情は、本来満たされるべきものが満たされなかったことによる悲嘆、喪失なのです。
怒りの本質
一部の例外を除けば、怒りたくて怒る人は基本的には居りません。
そして、本当は、その一次感情が生じたその場面での対処が要です。時間が経つほどに、対処がしにくくなります。
一般的に、日本人は、嫌なことがあっても我慢したり、忘れようとします。少なくとも、僕はそう感じております。
だから、相手に悲嘆や喪失を感じさせていても、当人が気付いていない、あるいは、深刻に捉えていないことがしばしばあります。
間を置いて、敢えて窓口に苦情を言ってくる方は、並々ならぬ思いを抱えていることがほとんどです。
怒りたくて怒るのではなく、怒らずにはいられない。
対応した担当者が当事者ではないことは分かっていても、組織の代表として、負の感情をぶつけずにはいられない。
そんな側面があります。
対応する側の痛み
率直に、自分が関係していないこと、自分が責任を負うべきではないことに対して怒られるのは、とても辛いです。
一人の人間としての弱さが、これは僕が請け負うことではないと、どうしても逃げ道を作りたくなります。
ましてや、良くも悪くも、怒られ慣れていないので、打たれた心の損傷は、実は相当なものです。
いわゆる相談技術を買われて、ソーシャルワーカーが苦情対応する話は全国的には、よく聞きます。
しかし、苦情処理と、ソーシャルワークは似て非なるものです。
特に、善意で動くと裏目になることが多いです。
どちらかというと、粛々と事実を確認し、どこに組織の非があったのか、組織としての謝罪の内容を決めるといった『調停』の要素が大きく占めます。
時に、罵声を浴びたり、理詰めで詰めて来られる対応など、誰だって慣れられません。
相手に寄り添いすぎると、自分が消耗して、あっという間に燃え尽きます。
そうかと言って、淡々としすぎると、相手はもっと傷付きます。
謝罪にしても、相手の納得を得るのも、どこにあるか分からない合意にたどり着く過程も、非常に骨が折れ、本当に難しいと思います。
相談援助にも、独特の精神の均衡を保つコツが求められますが、苦情に関しては、また異なるコツが求められるので、その使い分けは容易ではありません。
その役割、本当は誰がするべきか
役不足とは、能力に対して、役目が軽すぎることです。
当時の僕にとっては、この真逆で、『能力に対して、役目が重すぎ』ました。
今となっては、これは当時の所属機関の判断ミスだと思っております。
苦情対応は、クライアントの対応のみならず、謝罪の詳細の内部協議や再発防止策の策定も含めて、かなり組織の中枢と密接でなければ機能しません。
よって、担当者の人間性や能力だけではなく、職位も重要です。
だから、管理職になった時は、腹を括らざるを得ませんでした。しかし、それ以前の期間は、担うには不相応だったと思います。
他機関から入職された職員から、「本来は、もっと上の役職が、よりトップに近い人がやるべきだよ」と言われて、ハッとしました。
言われて初めて気がつきました。そして、今でもその通りだと思います。
より強い指揮系統で、業務命令で苦情が発生した経緯の再発防止に努めなければ、また同じことが起こります。
何より、悲嘆を味わい、苦情を言わざるを得ない人が、できる限り、これ以上に発生しないようにしなければなりません。
結論
「辛かった」と書きました。
それは、事実です。
しかし、その経験が無ければ良かったかと言えば、そうでもありません。
人間万事、塞翁が馬。
人生幸せも不幸せも予測ができないということ。
一見、不幸せに思ったことが幸せに転じたり、その逆だったりすることがあるので、安易に喜んだり悲しんだりするべきではないというたとえ
Oggi.jp
どうすれば良かったかなど、簡単には言えません。
僕だったら、少しでも、やる意義ありと見出せるなら、少しでもやり抜いて良い結果を出す到達像を想像するかな、と思います。
ただ、それしか無いとは、思わないようにはしております。何事も柔軟に、しかし、楽には流されず。
一番は、自分が仕事をする目的、人生の目的に適うようにしたいと思います。
投稿者プロフィール
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青森県八戸市・階上町を中心にカウンセラーとして活動しています。また、電話・オンラインカウンセリングもご利用いただけます。
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