他人と比べて落ち込む

他人と比べて落ち込む。
これを経験したことがない人はいるのだろうか。
そのように思います。

「いや、そのようにして、人は頑張って、研鑽していくのだ」と思う人もいるかもしれません。
僕も、調子が良ければ、そのように思うこともあります。
しかし、大部分はやはり辛いと感じざるを得ません。

他人と比べてしまう理由(考察)

不思議だな、といつも思います。
人は、どこで、他人と比べるということを学んで、始めてしまうのだろうかと。

例えば、学校などの集団にいると、狭い空間に数十人いると、嫌でも、自分と他人の違いを感じてしまいます。
正確には、差異ではなくて、優れているかどうかが価値基準になっていく側面はあったのではないかと個人的には思います。


たとえば、学業一つとっても、集団の中で上位にいた時、確かに、脅かされることもなく、平穏でいられたと思います。
正確には、他人と比べる、という行為から解放されている感じ。
わざわざ誰かと比べようと思ってはいない。

ところが、より成績上位者の集団に入り、下位にいると妙に居心地が悪くなります。
自分は集団の中で◯位より上には居たいという気持ちが、急に湧いてくるのです。
少しでも良い位置に居ることでしか、安心できなくなるという変な心持ちにさせられてしまう。

これは、僕の経験を少し膨らませた話です。
そして、変だな、と思います。
集団の中で、上か、下かといった社会的な位置が、自分の存在理由になってしまっていることに。
自分は、集団の中で、社会的な位置が、上でないと、居てはいけないのだろうか。

例えば、学生であれば、学生でなくなった時から、その序列から解放されます。
例えば、会社勤めであれば、定年退職等で、本格的にその世界から抜ければ、その序列はそもそも意味をなくします。

僕が退職して、個人事業を始めるまでの間、少し間がありました。
努めていた時は「課長」として、それなりの扱いを受けますが、組織を離れるとそういうのは全く無くなります。ちょっと寂しい気はしました。
大企業に勤めていて、大きな役職に就いていた人ほど、退職後に誰からも見向きもされなくなって辛い思いを味わうと聞いたことがあります。
それと似たようなものかもしれません。

何を言いたいかというと、「他人と比べてしまう」とは「社会的な位置を気にする心理」と密接なのではないかということ。
誰かと共有されていた「社会的な位置」から、離脱してしまうと、その集団の「他人と比べる」こと自体をもうしなくなるということ。
つまりは、学校や会社や何かしらの組織に属して現役でいる間に、特に若い時期ほど、一時的に囚われる思いなのかな、と思ってしまいます。

僕は、その社会的な位置が、上になったことも、下になったこともあるけれども、それを気にしたことが何か役になったことがあるかと言えば、思い当たる範囲では、全く無かったと思います。
あんなに思い煩ったのに、割に合いませんね。

自分の機能ではなく、目的を考える

「他人と比べてしまう」とは、あくまで「自分の中の機能面」だけだと思います。
人は、「機能」が存在理由ではありません。それでは、機械と同じです。
情緒、感性、品性といった内面の世界、家族や地域との関係とか、そういった他に大切にするべきことがたくさんあります。
他人と比べて落ち込んでしまうと、これらを疎かにしてしまうと思います。

僕も、他人と比べて落ち込むことは今でもあるのですが、一番は、自分を見失うので、できる限りに避けたいと思っております。
自分を見失うとは、自分が何を感じているか、何をしたいのか、どこに向かいたいのかといった「目的」とか「方向性」を見失うということです。
他人と比べると、他者より優れること(社会的な位置が上になること)が目的になって、道を逸れるのです。

ちなみに、SNSを覗くと、個人事業主、カウンセラー、ソーシャルワーカーが山ほどいて、その多くが、皆、僕の数段上を行っていて、はるかに知識も技術も持っていて・・・という風に圧倒されることはしばしばです。
自分より優れた人がたくさんいるのは間違いありません。しかし、それによって「だから自分は駄目」ということはありません。絶対に

これが大事なのだと思います。
他人と比べて落ち込んでいたら、僕は開業しようとは思いませんでした。
正確には、途中、やろうか、やらないかを随分悩みました。
それでも、『僕は、本当は何をしたかったのか』『僕は、これまでの経験を活かして、どんな、誰かの役に立てるだろうか。貢献できるだろうか。』を考えた時に、個人事業主として開業する方向に舵を切りました。
それが、今の僕の目的だと心から思えたからです。

比べるならば、過去の自分と

そもそも、なぜ私たちは人と比べてしまうのか?

「私たちが人と比べてしまうのは、脳がステータス(=序列)を重視するから」だと、神経科学を活用したリーダーシップ開発を行なうコンサルタント、デイビッド・ロック氏は述べます。

(略)

人とではなく「過去の自分」と比べるほうがいい理由

そこでロック氏は、「他者とではなく、過去の自分といまの自分を比べる」ことをすすめています。というのも、脳は、昔の自分と比べて成長したと感じた場合も、ステータスが向上したと判断するからです。

STUDY HUCKER

上記のように、比べるのであれば、過去の自分と比べる方がいい、と言われております。

これは理に適っていると思います。
僕も、僕がやりたいと思い、誰かに貢献できるこのカウンセリング事業を続けるためには、過去の自分と比べることで、積み上げてきたものを実感できて、自信になります。
また、これから先、何を磨いて、積み上げていけば良いかも分かるので、他人と比べるよりも前向きになります。

野球のイチロー氏も同じようなことを言っておりました。
野球選手と言えば、競技であり、周りは自分の競争相手ばかりで、他人と比べてしまうのは、普通の業界の比ではないと僕は思っておりました。
しかし、イチロー氏の話を聞くと決してそうではないようです。

「人よりも頑張ってきたとはとても言えないし、そんなことはまったくないですけど、『自分なりに頑張ってきた』ということはハッキリ言えるので、『重ねることでしか、後悔を生まないということはできないのではないか』と思います」

(略)

「生き方と考えるならば、あくまで“はかり”は自分の中にあって、自分なりに“はかり”を使って限界を見ながら、ちょっと超えていくということを繰り返していく。

そうすると、『いつの日からか、こんな自分になっているんだ』という状態になって。
だから少しずつの積み重ねでしか自分を超えていけないと思うんですよね」

さらに、以下を熱っぽく語りました。
「一気に高みに行こうとすると、今の自分の状態とギャップがありすぎて続けられないと僕は考えているので、地道に進むしかない。

進むだけではなく、後退もしながら、あるときは後退しかしない時期もあると思いますが、自分が『やる』と決めたことを信じてやっていく。

それが正解とは限らないし、間違ったことを続けてしまうこともあるんですけど、そうやって遠回りすることでしか、本当の自分に出会えないという気がしています」

note(bigluck)

基準は他人ではなく自分の心の中にあると言っている所が、とても良いですね。
結果を出した人物がこう言うと、説得力があります。

僕は、個人事業としては、まだ二年にも満たない、初任者です。
気付かずに、やるべきことを見落としたことも、もっと早い内から手を付けておくべきだったと後から気付いて失望したことも、たくさんあります。
「何やってたんだろう」と思うことも、無い訳ではありませんが、遠回りしたからこそ気付けたことであって、その中でたくさん、たくさん、自分と向き合うことができたのは大きな収穫でした。

ちなみに、自分があと何を積み重ねれば良いかを確認するために、周りを見ることはあります。
それは比べるためではなく、自分に足りないものを探すためです。
そこで自分に無いものを持っている他者を見ても、落ち込むことはありません。
なぜなら、目標設定の材料を探しているだけだから。もっと言えば、後に、自分もそうなっているつもりで見ているからです。

結論

目的と手段が逆転することは、しばしば有ります。
他人と比べて落ち込むのは、安心できる社会的な位置の確認が目的になっているからだと思います。これは、不毛な、終わりなき、到達なき競争です。
自分の目的が明確であれば、無闇に他人と比べる行為が、目的から遠ざかるだけだと、遅かれ早かれ気付くと思います。
大事なのは、自分の目的を突き詰め、過去の自分より積み上げること、自分の色を濃くしていき、唯一無二の自分であることではないか。
そのように僕は考えます。

投稿者プロフィール

中田 雅也
中田 雅也結い心理相談室
あなたのミカタ(味方となり、強みを再確認し、見方を再構成し、やり方を一緒に考える)となって、ソーシャルワーク&カウンセリングを駆使して、あなたの今ここからの歩みをお手伝いします。