人前で話すのは苦手でした(三)
こんにちは。
人前で話すことに慣れるに至った、僕の経験の話の続き(三)です。
『しくじり先生』というテレビ番組があります。
いわゆる娯楽番組ですが、放送回によっては、娯楽とは侮れないほど、示唆や教訓に満ちております。
人生で、一人の人間が経験できることには限りがあります。「同じ轍を踏まない」という言葉がありますが、同じように他人の失敗にも学ぶことができます。
人前で話すことにも、失敗は付き物です。
小集団での失敗ならば、「ごめんなさい、上手く話せませんでした」と言えますが、大集団、重要な場であると取り返しがつかないこともあります。
失敗談
過去の失敗ではありますが、思い出すと心が疼くので、ぼかして要旨をお伝えします。
僕が、大規模な場での、人前で話すこと(研修講師)として、あれは「大失敗だった」と感じる経験が二つほどあります。
失敗した理由は、一つは「相手が期待した水準のことを提供できなかった」からです。後にも先にも、この失敗だけです。あからさまに受講者が失望しているのが分かり、針のむしろとは、まさしくこのことです。
話の途中でも良いので、本気で逃げ出したいと思うほどでした。
そうなった理由は、企画担当者との打ち合わせ不足と、僕の認識違いです。
当たり前ですが、受講者の属性(職種、所属、年齢等)によって、何をどこまで求めるかは異なります。要は、僕はそれを読み違えたのです。さらには、依頼側の担当者も、そのことを上手く言語化できず、そのことの不味さを、僕も未熟ゆえ、流してしまいました。
今でも、あのスベリ具合は、思い出しても痛々しく、教訓として強く残っております。お笑い芸人が「すべって」辛い思いをする気持ちが、よ〜く分かりました。
聴衆に対するアセスメントは不可欠です。そうでなければ、対応(プランニング)のしようがありません。
もう一つの失敗は、一日がかりの研修講師を務めた時です。
二百人以上が居る大規模会場での講師でしたが、容易されたスクリーンが小さく、プロジェクターの画質も悪く、とにかく、画面が見づらくて、受講者にはかなりの不便をかけました。募るストレスはうねりとなって、言葉は直接聞こえませんが、不満のうねりがこだますかのようでした。
当日は、何とかこれを挽回しないといけないと思って、「そこでしか聞けない話」をふんだんに盛り込んで、何とか終えました。
ただ、上手くいかなかったことと、二百人のストレスを一身に浴びるのは、なかなか堪える作業でした。その後、一週間くらいは思い出しては「あーっ」となって鬱々としておりました。結局、一年後にもう一度、機会が与えられたのですが、挽回するまで引きずりました。
一年後に同じ舞台に立ちましたが、会場と設備に対するアセスメントも非常に重要という教訓を得て、緻密に打ち合わせをしました。
依頼者側に悪いと思いつつ、しかし、あんな思いをするくらいならと、設備に関しては細かく訊き、あれこれ要求もしました。何なら、「条件が揃わないならやりません」と言わんばかりに。
結局、割を食うのは、お金を払った受講者です。僕としてִは、何としても彼らの対価に見合う働きが絶対条件なのです。
だから、企画者と講師とは、一蓮托生の側面があって、相互の協力関係も絶対に不可欠です。互いに、信頼を生業とする以上、そう言わざるを得ません。
結果的に、僕としては、過去の失敗に打ち勝つことができました。
大袈裟かもしれませんが、過去の悪夢を振り払うことができました。
この二つの失敗は、失敗して初めて、留意しなければならないのだと学びました。
この記事をご覧になっている方が、大人数の前で話す重圧と戦っているなら、尚のこと、話す場の環境整備、下準備に気を配ることを勧めます。
属している組織、周囲の人々がこれらのことを教えられるだけの知識情報を蓄積しておれば幸いです。僕はそこに注意を払う必要があると深く認識していなかったので、身をもって学ぶ羽目になりました。
しかし、その分、二度と同じ失敗は繰り返さないものと思います。
組織の長として
退任した人間が、勝手に名前を出すのも憚れるので名称は避けますが、職能団体の長を八年間経験しました。
平時の組織内外の挨拶、研修講師、各種会合での発言等、たくさん経験させていただきました。
組織の長の発言は、僕(当事者)が感じるよりも、周囲が重く受け止めるので、基本的に不用意なことは言えません。
例えば、前回記事でも触れたように、五百人の前で話すと、その言葉を聞く聴衆が、真剣であるほどに強く影響を受けます。抽象的ですが、こういった雰囲気があります。
僕より年長者から「気負わなくていい」とは言われましたが「これを気負わずにいられましょうか」という心境でした。
組織の人々を、元気付けることもできるし、その逆もできてしまう力を秘めているのが「長」という役割、地位なのだと思います。
組織の長は、組織がどうあるべきか、どこに向かうかを示す、導き手だと思います。
どうすれば、そのための発言ができるのか。そこに安易な方法論はないのだと僕は思います。
むしろ、常日頃から、ずっと考え続けることで、やっと見出だせるのだと思います。
漫画「アオアシ」に「考え続けることで、やがて考えなくても、意識せずとも(体現)できるようになる」といった趣旨の言葉があります。
(厳密には、違いますが、趣旨だけ拾ってくだされば幸いです。)
組織の長も同様だと思います。普段、その人が何を考えているかが、自ずとその人の言葉の端々から、振る舞いから滲み出てきます。
不意に発言を求められることもしばしば。そして、そこで咄嗟に出てくるのは、普段考えていることなのです。
それは、長としての言動のみならず、「人としての」という側面でも同じです。
普段から、自分を律し、身なりや言行に、他者への気持ちを持っていれば、自ずとそれなりの品性や雰囲気を身に纏うようになると思います。
全員がそうだったとは言いませんが、「この人は紛れもなく組織の長なのだ」と思わせる人々には、何人も出会いました。
長になったから、そこまで成長できたのか。あるいは、そうだったから、長になれたのか。きっと両方でしょう。なるべくしてなるとは、このことを言うのだと思います。
組織の長としての発言は、(発言場面の前に)準備も大事ですが、むしろ人間性という土台が不可欠なのだと、強調した方が良いかなと思います。
だから、長になってから準備するより、それ以前から、別に長の役割を意識しなくても、人としての在り様、哲学とか信念といったものを追求姿勢があると良いと僕は考えます。
難しいことかもしれませんが、「人としての深み」があるかないかは、驚くくらい周りに伝わり、それを見抜く実力者が一定数いることを忘れてはいけません。
そなっているかどうかよりも、「より良くあろうとする姿勢」があることが大事だともいます。完成されていなくても、ひたむきさは見ていて心地よく、肯定的に受け止められます。
学びの一番は、そんな一流とされる人々に直接触れていくのが良いのではないでしょうか。
僕はどうだったか。実は、離れてからこういったことに気付いたことの方が多いです。体現できたかとなると、正直、心許ないです。
だからこそ、僕は支援者の支援として、こうやって伝えていきたいという、今の原動力になっております。
三回に分けた「人前で話すこと」についての話でしたが、何かしら、お役に立てれば幸いです。
「やってやれないことはない」
「やるために、どうすれば良いかを考える」
「ひたすら改善に努め、ある程度の成果が出るまで、やり続ける」
「突き詰めると、その人の人間性が言葉の内外から、滲み出るようになる」
僕にとっては、「人前で話す」ことは「自分を磨く過程そのもの」であったと思います。
投稿者プロフィール
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青森県八戸市・階上町を中心にカウンセラーとして活動しています。また、電話・オンラインカウンセリングもご利用いただけます。
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