客観と鏡
こんにちは。
小学生の頃の担任より、ある時、「とても我慢強い」と言われたことがあります。
それを言われたのが、進級して、担任ではなくなった、ずっと後でした。
ひょんなことから、始まった会話と思いがけない言葉でした。
当時は、そのことの意味も分からずに、きょとんとしていたと思います。
大人になってから、同じようなことを言われたことがありました。
その時、外側からはそのように見えるのかと、新鮮な気持ちでした。
もし、それが、その通りであるならば、僕は昔からそういった気質を受け継いでいたのかもしれません。
そして、その気質は、親から、親の生真面目さから受け継いだと思います。生真面目な親は、出来が悪かったとしても、怠惰や、やるべきことをやらないことには厳しく注意されたと思います。
「我慢強い」にも良い面もあれば、そうではない面もあります。
悩みを抱え込みがちになったり、それに関連して、心身の調子を崩すといったことも起こりえます。
故に、何でも我慢強くある愚直さではなく、本当に我慢強く臨まないといけないことは何のか、我慢しないで対処する方が良いことは何なのかを見極める、分別は大事なのだと思います。
そういった面を含めても、今となっては、「我慢強い」と言われて嬉しい気がします。
なぜなら、一朝一夕に身につけられることではなく、気質が絡んでおり、自分にはその素養があるのだと、いくらか自分に対する信頼を感じられるからです。
そして、不思議なもので、当の自分自身が、「我慢強い」とは、全くといって良いほど、そのような自己認識を持っておりません。
むしろ、まだまだ不足、この程度で「我慢強い」など自認して良いはずがないと言う気持ちが、どうしても優ってしまいます。
つくづく、一人で、単独で、客観視するとは、本当に難しいと思わされます。
援助(支援)の専門職の世界においても「自己覚知」は、基本中の基本ですが、何も援助の世界に限らず、「己を知る」とは、過去の哲人たちが挑んだ壮大で、難解で、難しい題目なのだと思います。
やはり、適宜、第三者からの客観性のある言葉、まさに自分の存在、特に内面などの性質を、鏡に映してもらう作業は、自分を知る上では不可欠なのだと思います。
若い頃は、何も知らず、鼻っ柱が強かったので、自力で何でも学び、覚知もしてみせると、思い上がったことを考えたものです。
しかし、今では、「知るべきを知ることができず、何を知らないといけないのかさえよく分かっていない」という、諦めでもなく、悲観でもなく、そこから前向きに考えていこうという立ち構えを獲得できるようにはなりました。
何事にも限界があり、しかしながら、自分という道具を磨き、自分のできることに全力を傾ける。
それでいいじゃないかと思えるようにはなりました。
自己を知るには、やはり、自己を映してくれる、鏡(他者、客観)が必要なようです。
投稿者プロフィール
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青森県八戸市・階上町を中心にカウンセラーとして活動しています。また、電話・オンラインカウンセリングもご利用いただけます。
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