素手と心の感覚

こんばんは。

昔、テレビで見た、印象深いと思ったこと。

新幹線だったかロケットだったかの先端(流線型)部分は、型にはめて金属を加工することが出来ないので、基本的には、人の手で仕上げるのだと紹介されておりました。

強調されていたのが、あくまで「素手」でなければならないのだ、と。

厚い手袋を装着していたのでは、金属のわずかな凹凸を察知できないから、だと。

どんなに精巧に、加工する機械が開発されても、人の素手の感覚には敵わないのだ、と。

例えば、掃除をしていて、汚れがひどかったり、強力な洗剤を使う場合は、ビニール手袋を装着すると思います。

しかし、手袋をした状態で、どんなに磨いている面をなぞっても、指先からは汚れの落ち具合は感じられず、目視で確認するのみです。

綺麗になったと思っても、指でなぞると、かずかなこびり付きによる凸凹を感知することがあります。

所変わって、カウンセラーがクライエントの全身から発せられる言語情報、非言語情報(見なり、仕草、表情など)を探る時、

カウンセラーは全身を目や耳にするかのように、しかし、凝視するのではなく、耳をそば立てるでもなく、クライエントに感受の感覚を向けます。

その作業に集中できている時とは、さながら素手で作業をする人の感覚に似ていると思います。

集中しきれていない時、雑念が混ざる時は、手袋をはめて作業をしている状態に似ていると思います。

しかし、時には、敢えて自分の感受性を制御するために、その感覚を幾らか閉ざすこともあります。『素手』の状態では、相応に、手に痛手を負うことがあるからです。

掃除の時も同じでしょう。素手はあくまで感覚を用いて、察知するため。感受の度合いが強い指先は、その分、痛みも強く感じてしまいます。

素手と手袋を使い分けるように、心も、時には感受を全開にしたり、閉ざしたりします。

そして、カウンセラーではなくても、きっと、誰もが、それを無意識に行なっていることでしょう。

感受することは、感受性が高いことは、強みにもなり、逆に、その分、使い方や手入れにより工夫が必要となる場合があります。

それが分からずに、痛手を負い、感受を閉ざしがちになったり、人を避けたりすることが、もしかしたらあるかもしれません。どのくらいの防護が必要か、いつそれを解放して活用すると良いのかは、その人の中にきっと眠っていると思います。

己を知ると、きっと、より良く自分を使うことができるでしょう。

投稿者プロフィール

中田 雅也
中田 雅也結い心理相談室
あなたのミカタ(味方となり、強みを再確認し、見方を再構成し、やり方を一緒に考える)となって、ソーシャルワーク&カウンセリングを駆使して、あなたの今ここからの歩みをお手伝いします。

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