本当の充足感は広告では得られない

こんにちは。

僕が子どもの頃、学級の中で、多機能の筆箱を持っている子がいて、悠々と使っている様を見て、とても羨ましくなったことを覚えております。

『友達が持っているのを見て、自分も欲しくなる。』とは、子どもの世界の定番です。

大人になってから振り返ると、『そんなに釣られなくても』と思うのですが、分かっていたとしても釣られてしまうから困ってしまいます。

大人でも、身近な例で言えば、スマホです。どんどんと新機種が登場します。一年もすれば旧機種となってしまいます。『新しいスマホはこんなにも素晴らしいですよ』と言われれば、欲しくなります。

スマホの広告は紙面でも、動画でも、実に上手く出来ていると感心します。それを使うと、まるで自分の生活がきらびやかに一変するかのような錯覚に囚われるほどです。

『でも、高い。まだ今の機種の分割代が残っている。』と思った方は少なくないと思います。

下手すると、『古い機種をずっと使っている自分は駄目なのだろうか』という変な囚われを生むことも、無きにしも非ずです。

社会がどんなに豊かになっても幸福度が増す訳ではないことを示す研究があるそうです。それは、人が、隣人と比較して自分の幸福度を測ってしまうために生じる現象のようです。

そして、比較対象は隣人に留まらず、広告にも及び、つまりは、広告が増えると国民の生活満足度は低下するようです。

人間の幸福度に関する研究としては、1974年に公開された研究が、社会がより豊かになっても幸福度が増加することはないと示唆しました。なぜそのようなことが起こるのかというと、自分を隣人と比較して「自分は幸福ではない」と感じてしまうメカニズムが生まれるからではと考えられています。

この研究結果から「人間が相対主義的に自分の幸福度を測る」と仮定すると、隣人が新車を購入すれば自分が購入した新車に対する喜びや幸福度は奪われるということになります。

(略)一方で、別の研究では人間の「羨望」の感情が幸福度に悪影響をもたらすという長期的な証拠も提示されています。これまでにも広告が健康に与える悪影響について調査する研究は存在しており、(略)

そこで、ミッシェルさんら研究チームは、広告と人間の幸福度との間に存在するネガティブなつながりを証明するための調査を行っています。研究チームは、27カ国90万人を対象にして1980年から2011年にかけて行われた調査データを無作為サンプリングして使用。データの分析結果から、広告支出が増加すれば国民の生活満足度は下降し、反対に広告支出が減少すれば国民の生活満足度は上昇することが明らかになっています。

gigazine(広告が増えると国民の生活満足度は低下する)

何だか、分かる気がします。

とかく企業は新しいものを売りたがります。最新商品に追いつくことが良いことと思うならば、追いつけないことは『悪いこと』になってしまいます。持たざる自分は『不十分』と勘違いするかもしれません。

上記の内容を紹介している別の記事では、生活から広告を排除するために、テレビを見過ぎない、ネット広告をブロックするといったことを勧めておりました。

また、大都会ほど広告にあふれているため要注意という意見もありました。

これも分かる気がします。持たざる自分は『垢抜けない田舎者』だと思わせられるからです。昔、そのように感じたことがありました。

個人的には、安価なもので、身軽に暮らしたい主義なので、広告一辺倒の世界観には馴染めません。馴染むつもりもないし、むしろ対極の価値観で生きているかもしれません(多少は利用しますが)。

広告とは、ある種の作られた幸福像のようなもので、それを追いかけてもキリがなく、確かに人を幸福にはしないのだと思います。

僕はどちらかといえば、ミニマリスト志向で、『より少なく身軽に、しかし、質の高い生活を』という主義です。要は、持たなくても、持たない今のままで、今ここから価値を探し出すことです。

物を持つこと、最新を追うこと自体を否定する訳ではありませんが、本当の充足は持たざる自分の内側からしか見つけられないものだと思っております。

投稿者プロフィール

中田 雅也
中田 雅也結い心理相談室
青森県八戸市・階上町を中心にカウンセラーとして活動しています。また、電話・オンラインカウンセリングもご利用いただけます。
普段使いのカウンセリング(日常の悩み事)と援助職のためのカウンセリングをご提供しております。

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