自分が自分であるということ

こんにちは。

自分の出身地の方が、新聞記事に、その土地の気風について触れていて、思わず目が留まりました。

庄内藩の「自由放任」の考え。自らも、「型にはまらぬ」庄内人の系譜に連なっている。

産経新聞

切り取った引用だけを見ると、はて何のことやらと思われるかもしれませんが、よろしければ元記事をご覧ください。

そして、果たして「自由放任」「型にはまらぬ」がその地域特有なのかと言われると、僕も上手く説明できません。ただ、それでも「何か、わかる気がする」感覚を覚えます。

たかだか十八歳までしか過ごしていなかった故郷、しかも、市町村合併によって同じ『市』にはなりましたが、元は別の市町村です。さりとて『庄内藩』で括れば同じとも言えます。

高校の時の担任が、意訳すると、『(僕の生まれた地域では)激しい一揆のあった地域で、その気概を貴方も受け継いでいるはずだ』と授業の中で言っていて、こういう自分のアイデンティティに関わる言葉は妙に自分の中に残ります。

そして、ワッパ騒動と言われる一揆が実際にあったそうです。

「百姓一揆」から「自由民権運動」へと発展した大規模な民衆運動で、雑税を廃止させ・租税率を下げさせ庄内の近代化を促した事件である。

ウィキペディア

肯定的に書かれていると、尚のこと嬉しく思います。

突き動かされたその思いが正当ならば、何も曲げることはありません。結果が直ぐに報われなかったとしても。

僕自身は、本当は集団の中に埋没して、目立たなくすることを自分の生存形態としてきた側面があります。

その一方で、集団の中にいると考えることを止める傾向があるので、一人でいる時間を確保しないといけないと若い頃から感じておりました。

穏便に、つつがなく、と思う一方で、決して曲げたくない意思、貫きたい生き方も一方であって、葛藤すること、しばしばです。

どっちが本当の自分なのだろうか。昔はよく悩みました。

前者が社会的自己、後者が本来の自己なのだと思います。どちらも自分であることに変わりないけれども、後者は立場が変わっても、変わらないままの自分です。変わらないままの自分の方が大事かなと僕は思います。

そんな時にもたげてるのが、社会的な制約や体裁、型などにはまらず、自分を貫きたいと湧き上がる思い。自分を自由にさせて欲しいとの思い。

最初に引用した新聞記事を見ると、妙に共感を覚え、会ったこともない方ですが、「何だ、僕と同じですね」と思わず言いたくなりました。

ごくごく平凡で、何も無き人間ですが、そう思わずにはいられませんでした。

どうにも、世の常識、世の大勢を見ると、自分を曲げてでも無難にという理性が働くのですが、自分が自分であってなぜ悪いのかとの心の声がどうしても優ってしまいます。

困ったもんだな、多分自分は「成功」できないな、けれども仕方ないか。

そう思える自分がいるのも確か。

そう言えば『The Top Five Regrets of The Dyin(死にゆく人の後悔トップ5)』の著書の中で、一位は「もっと自分らしく生きればよかった」です。

勿論、自分の意思、決断をいたずらに英雄視せず、思慮深くあるのは当然で、大前提にするべきです。

自分だけでなく、周りの人への影響も考えるべきです。ただ、考えすぎたら行動できなくなるので、どこかで線引きも必要、その加減こそが妙。

その上で、いつも思うことは『自分が自分であって何が悪い』という開き直り。それは「成功」することよりも大事と、思えるかもしれません。

それを最後まで貫いたら、本物。さて、どうなるかは、暫し後にならないとわかりません。

それでも貫きたいと思えるかどうかが全てです。

投稿者プロフィール

中田 雅也
中田 雅也結い心理相談室
あなたのミカタ(味方となり、強みを再確認し、見方を再構成し、やり方を一緒に考える)となって、ソーシャルワーク&カウンセリングを駆使して、あなたの今ここからの歩みをお手伝いします。

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