動機を考える
こんばんは。
こちらのプレジデントオンラインの記事がなかなか面白かったです。題名よりも副題の方がよく伝わるかと思うので引用します。
『「困った行動」を叱っても問題は解決しない』です。
たとえば、「授業中にウロウロしてしまう」子どもに「ウロウロしないで座ってなさい!」と怒るのは簡単です。怒られた子どもだって、先生がこわいし、怒られるのは嫌だから、その場では座るかもしれません。でも、きっと長くは続きません。
明日には立ってるかもしれないし、つぎの授業で立ってるかもしれない。先生がこわくて座り続けていられても、ストレスが小さいわけがありません。あたりまえですよね。
だって「ウロウロする」=「見えてるところ」に対してのアプローチは行ったものの、「どうして」ウロウロするのか=「見えないところ」にはまったく触れてないんだもん。
(略)
だから、わたしたちは考えないといけません。「どうして」そうしちゃうのかを。
プレジデントオンライン
勝手ながら、わかるな〜と思って拝見しました。どちらかと言えば子供の立場で。
僕自身の古い記憶ですが、四歳から幼稚園に入園しました。入園した日の記憶が朧げながらあるのですが、それは『不快』ということです。
どういうことかと言うと、入園までは家で自由に過ごせて伸び伸びと過ごしておりました。そこから急に、集団生活が始まり、集団に合わせなくてはいけなくなり、自分の好きな時に、好きなように振る舞えなかったのが著しく不快だったのです。
確かに好き勝手にできるわけではありません。社会性を身につけて・・・とは今となってはわかるのですが、子どもの頃の僕にはわかるはずもなく・・・。
何度か、○○組から抜け出して仲の良い友達と幼稚園の庭で遊んだことがありますが、こっぴどく怒られました。子どもなりにも、大人をすごく困らせたのはわかっていて、それがむしろ衝撃で、言うことを聞かないといけないのだと自制することを覚え始めたと思います。
今だったら、僕は問題児として扱われるでしょうか。(当時も、そうだったのかも)
『問題』とか『問題のある○○』という見方は今でも好きではありません。当人には、当人の言い分があり、見方があり、考え方があり、当人にとってはそれなりの合理性があるからです。
そんなこともあってか、僕は頭ごなしで叱るとか、決めつけるようなことは好きではありません。
僕の中の、四歳児だった自分が言うのです。
『「どうして」そうしちゃうのかをわかってよ』と。
記事を読んで何となくそんなことを思い出しました。
おそらくですが、集団に合わせるとか、規律とかを度外視して本当に自由にさせれば、不適応行動などというのは実は無くなるのではないかなと思うことがあります。
そうは言っても、完全に奔放には生きられないでしょ、と心の中で、大人の自分が諌めます。確かにそうなんですけどね。
ただ、周りの大人にわかってもらえたかどうか、この違いは大きのではないのかなと思います。
僕の個人的な経験と、個人的な考えを述べた迄なので、全てに一般化できる内容ではないので悪しからず。
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