面影
こんにちは。
瞼の母という戯曲がありますが、意味としては記憶に残っている母の面影です。
ある医師のブログ記事の中で、九十代の女性の死亡をご家族に死を告げたところ、
六十代くらいの息子さんが母の亡骸に抱きついて、ものすごい勢いで泣き始めた、
というのがありました。
曰く、いくつになったって大事な母ちゃんが亡くなったら、こんなふうに泣くんだよ、
とのこと。
わかるなあ、と思いました。
自分も十数年前に母親を亡くしましたが悲しくて堪りませんでした。
男たちの大和という映画の、死に方用意、という場面で、
兵隊たちが「母ちゃーん」と叫ぶ場面がありました。
優しい母の面影に縋る気持ちと別れを告げる気持ちが何だか伝わってきました。
その後、僕は父も亡くしました。
自分もいい年齢なので、両親と死別は珍しくないのですが、
「子としての自分」の思い出が鮮明にあるだけに、一抹の寂しさを覚えます。
しかし、瞼の母であるかのように、心の中に自分の幼き日の両親の姿が今も生きています。
両親が生きていなくても、数々の思い出があって、心の中の父と母は変わらずに居てくれるような感覚があります。
居ないけれど、居る。そんな不思議な感じです。
死しても尚、家族でいるのだと思います。
家族が至上だということを言いたいわけではありません。
清洲会議という映画で、丹羽長秀が柴田勝家にこう言います。
「お主は考えないで動きすぎる。
何か事を為す時はまず、それが本当に正しいかどうか、
心の中のわしに問え。」
僕の最も好きな場面なのですが、人は誰もが誰かの面影を持ち、
時には対話することさえもできるという示唆がここにあります。
ブログや本、特に古典であっても、
自分と同じ感性を持っていたり、同じ考えに行き着いた人を見ると、
とても嬉しくなります。
あたかも対話をしたかのような感覚になり、
また、勝手ながら友人だと思いたくなることがあります。
瞼の母であっても、家族以外であっても、自分に影響を与えるほどの人は、
面影となって、自分の心に生きるという側面があるのだと思います。
それが良いように働く場合もあれば、残念ながら逆もあります。
ここで僕が伝えたいのは、
実に深い人の心、時や空間をも越える心の世界の広さ、です。
本当に、人というのは不思議だな、と思います。
いつも、そう思います。
その思いを、貴方への敬意に替えて。
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