人生の最終段階に思うこと
こんにちは。
Yahoo!ニュースをちらちら見ていたら『死ってなんですか?…「考えておくと、人生はよりよいものになることも」と腫瘍内科医が考える理由』という記事が目に止まりました。
記事内で医師は、がん=死ではなく、「がんになっても、自分らしく生きていけるし、それを支える社会にしていこう」とがん教育で伝えていると言っております。それでも、やはり「死」を想起するものでもあるようです。詳細についてはぜひ記事をご覧ください。
記事を読んで個人的に思うことをつらつらと書かせていただきます。
医療ソーシャルワーカー時代、いわゆるがん末期の患者さんの在宅療養支援にはいろいろと関わらせていただきました。
個人の印象ですが、どんな風に過ごすと残された時間が満ち足りたものになるのか、その時になって初めて本人も家族も考えることが多いようです。
僕も身内を何人か看取っており、それを踏まえての感想なのですが、普段からそこまで深いことを考えずに過ごすことがほとんどなので、どう生きたいか、どう過ごしたいかを深めるのは容易ではないと感じます。
どこか「死んでしまう」ことやそれについて話を深めることを躊躇ってしまう、避けたいという心理がどこか働いてきます。それは本人にとっても、家族にとってもです。
家族の側だけが話し合いを望んでも、当人がそれを望まなければ話し合いは成立しません。その逆も然りです。
自分はソーシャルワーカーとしての経験も踏まえ、家族としてより良い人生の最終段階の過ごし方について、いろいろ話し合っていきたいと思ったものの、実際はそう簡単ではありませんでした。家族といえども、そんな深刻な胸の内を唐突に切り出すのも簡単ではありません。人生の最終段階の事柄に限らず、平時から心の内の深い部分を吐露する関係性が整っていないと難しいことがあります。また、家族だからこそ弱音を吐きたくないという人もいたりします。いくら支援の経験があっても、当事者側に立つと驚くくらい無力なのだと思い知らされました。
家族は、家族の立場で本人を心配しますが、残される自分たちの心配をもどうしてもしてしまいます。
僕個人は当事者になったことはありませんが、その胸の内はさまざまな思いに包まれていると思います。
各々の当事者と家族の、課題に対する『向き合い方』はさまざまです。単刀直入に話し合うやり方の当事者・家族もいれば、誰かの力を借りて話し合うやり方・・・いろいろです。その当事者・家族に適したやり方で臨まなければなりません。
『どうしたい』と尋ねるのは、尋ねる側にとっても何の気なしの質問かもしれませんが、質問された側としては返答に窮するかもしれません。
事実を受け止めきれずに混乱していたり、病が自分や家族にどんな影響があるか頭の中で整理がつかなかったり。頭の中でぐるぐるといろんなことが巡るけれども、筋道だった思考になり得ず、結果的に何も考えられない状態になることは珍しくないと思います。
『どうしたいか』に行き着くには、時には個人史・生活史を振り返ることが必要な場合もありますし、順序よく話せなくてもとつとつと語る中で徐々に見出だせることもあります。
『心』を『水面』に例えると、大きな病(特に死を想起させるような)は激しい『波紋』を起こさせます。どう構えても、波の影響は受けます。揺られながら、『それで、どうしていくか』を考えるしかありません。
そこで人生の最終段階について共に話し合えたならば、何かしらの答えを見出だせたら最善です。しかし、そこで何か有効と思える話し合いができなかったとしても、そのことを責めずに受け止められたら幸いです。それくらいに難易度が高いのが人生の最終段階の話し合いだからです。
必ずしも、何かしなければ、何かできるという前提でいなくても良いのではないでしょうか。そこまで開き直れたならば、何か見えてくるものがあるかもしれません。
方法論は有るようで無くて、一つ一つ紐解くように、各々の物語(心・感情・思考・個人の軌跡)を確認する過程の先にたまたま訪れるのが「人生の最終段階の過ごし方の方針」だと思うのです。結果的に、それは「有る」かもしれないし「無い」かもしれません。
それでも、見出だそうと取り組んだことにまずは価値があるのだと認めてはどうかなと思います。
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