目標はあっても、なくても良い
「何をやりたいの」
「何になりたいの」
「目標を持ちましょう」
直接的に言われたことはありませんが、10代の頃は、婉曲的に、遠回しにこういったことをさかんに周囲から、大人から問われていたのだと思います。
もちろん、当時はそんなことを認識をしてもおりませんでした。何かしら、目標を見つけなければならないと、進んで思っていたこともあって、気にしたこともありませんでした。
ただ、今となっては、自己実現の強要をされているようで、これは問題があるのではないかと思います。
何者にもなれなくても、何者かを目指さなくても、それでも十分なのだということの方が大事だと思うからです。
漫画スラムダンクの「あれから10日後」という最終回からの続編があります。
そこで桜木軍団の以下の台詞があります。
暇だな。
花道の試合でもあれば からかいに行けるのによ。
・・・・
おめーらもよう・・・
自分の何か見つかるといいな・・・
ユーチューブ
この続編は2004年に公開されました。当時はこれを見て何とも思わなかったのですが、十数年を経て、じわじわと引っ掛かるようになってきました。
なぜ、「何か」が見つからないと、充実しないと思うのか。
なぜ、見つからないままでも、今が良いのだと思えないのか。
やはり、自己実現することは良いことという前提があるように思えてなりません。
ちなみに、僕は高校生の時に医療ソーシャルワーカーになりたいと志し、目標を持った側にいたと思います。
当時はそんなことを気にもしませんでした。しかし、所々で、進路や目標に迷う周囲を見ると、自分は見つけた側なのだと安堵している気持ちが少なからずありました。(ちょっと嫌な奴・・・)
結論的に、目標がたまたま見つかればそれで良いと思いますが、無ければ無いで別にどうということもありません。
目標は確かに、日常や人生に「張り」をもたらしますが、その分、大変な思いもします。理想と現実との乖離、出来ない自分と向き合うことは、なかなかの大変さがあります。目標など持たなかったら、あんなに苦しまなかったのにと思わなくもありません。
だから、目標があってもなくても、自分を保ち、満ち足りていられることの方が大事だと思います。
僕は、自己実現の競争というものがあるなら、僕は完走者とは言えないかなと思います。例えば、サッカー選手などのプロスポーツ選手でも、悔いのない満足のいく引退を迎えられるのはごく僅かだと聞いたことがあります。
勝ちという概念があれば、敗けもまた存在します。達成する、上手くいく、叶うという価値観があるなら、その反対も当然、存在します。
目的のない生活は味気なく、目的のある生活はわずらいだ。
(作家 ヘルマン・ヘッセ)
HIKIPOS
ヘッセの本は有名ですが、実は僕は読んだこともなく、全くと言って良いほど知りません。しかし、この言葉だけは、とても共感できます。
上記では「目的」と書かれておりますが、「目標」や「夢」と置き換えてもその通りだと思います。目標がないと、確かに味気なさを感じることもあるかもしれません。しかし、あったらあったで、それに振り回され、煩わされるのも事実です。
目標があったら、「良かったね」と思うし、「全力で打ち込む経験を堪能すればいい」と思います。しかし、「それが全てでは無いよ」とも言いたいです。
目標がなくても、それでも自分の日常や人生には素晴らしさに満ちていると、そう感じ取る感性を、そこで育んで欲しいと思います。
目標は、人生のどこかで向こうからやって来るもの、自己実現は取り組んだ結果としておまけとして与えられるもの。
個人的にはそのように思います。個人の意思だけで見つかる訳でもないので、見つからなかったからといってどうということもないと思います。
あってもなくても、今を大事にできればそれで良いと思います。
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