話したい時が話し時
僕の父は、とても無口で、何を考えているか分からない所がありました。
それでも飼い犬を前にすると、急に愛情表現が豊か。
きっと、後者が本当の姿なのでしょう。
「なんだ、こんなにも愛情深いのか」と驚くほど。
僕も口数は多い方ではありません。
思ったことや感じたことをあからさまに表出することを素直に良しと思えないためです。
しかし、何も感じていないわけではありません。
むしろ、感受した情報の整理が追いつかないほど、いろいろなことを感じ、考えます。
きっと父もそうだったのでしょう。
照れ屋の父には、父を仲介する母の存在が不可欠だったのだなと今になってよく分かります。
思えば、そんな父も、偶に饒舌な時もありました。
「そんな風に思っていたのか」と後から答え合わせができることもしばしば。
話そうと思っても、話せない時もあります。
話そうと思っていなくても、思いがけず、たくさん話せることもあります。
そんな機会や場面も、ある意味、贈り物のようなもの。
無口であっていけないということは無い。
饒舌になれというつもりも無い。
そのままで、話せて、分かり合える時があるならそれでも十分。
そんな考え方もあるはずです。
僕も、父も、話す時は、妙にたくさん話します。
つまりは、話したい時が話し時。
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