支援者の傷付き(二)

こんにちは。

今回は支援者の傷つきの二回目の話です。
今回は、個人の経験を中心にお話ししたいと思います。

支援者が「傷付いた」とは、なかなか言えない、言う機会がなかったと個人的に思います。
「なかなか言えない」理由としては、いくつか考えられます。

一つは、『支援者はクライエントに応えなければならなくて、支援者の私的感情に、格別、注意を払うべきではない』という雰囲気、空気があるためではないかと思います。

誰かにそう指導されたわけでありませんが、支援者の気持ちに蓋をする、注意を払わない慣習はあったと思います。せいぜい、『個別に愚痴る』で終わります。

むしろ、支援者の「傷付き」をきちんと処理しないから、歪に「愚痴」となったり、鬱屈した感情として、支援者の心に残るのではないかと思います。それを解消するのに、他者に攻撃的になる人もいたと思いますし、お酒等の嗜癖に走る人もいたような...。あくまで個人の見解です。

「なかなか言えない」理由の二つ目は、支援者自身の自尊心のためです。

支援の場ではなくても、特に僕の年代(及び、上の世代)の男性は特に、「自分が傷付いた」と口にすることには「恥ずかしさ」を覚えます。どこか、弱さをさらすようであり、「そんなことで、どうするんだ」という規範が、エゴグラムでいう所の『CP(Critical Parent:批判的な親)』がそれを阻止しようとします。

傷付いたと認めてしまえば、自分が惨めであるかのような錯覚を覚えてしまう所もあると思います。
何事も、弱さを表明するには勇気が要り、傷付いたと言えるのは、むしろ、勇気があると僕は思います。

そして、どんな時に傷付くか。
例えば、「クライエント」から、厳しい言葉を投げかけられた時。

支援者が関わる時のクライエントの状況は様々ですが、一般的に有り得るのは、課題を抱えて神経が過敏にならざるを得ず、疎通、調整の過程で、支援者に厳しい言葉をぶつけてしまう場面はあると思います。

ちなみに、僕個人の場合、クライエント(または、その家族)から厳しい言葉をぶつけられて、傷付いたということは、割合から言うと、実は多くはありません。

僕は、内向的性格ゆえ、その性質をいかんなく発揮すると、相手の感情に敏感になり、むしろ相手の感情に沿うので、揉めることは基本的に少ないです。相手の負の感情の高まりは直ぐに察知できるので、それに合わせて対応すると、「雨降って地固まる」のようになることが多かったと思います。

それでも尚、厳しい言葉を受けることも確かにありましたが、それは自分の問題というよりも、クライエントの側の事情、状況に拠るため、これは絶対に避けようがないと、ある意味、開き直れました。

但し、「身をかわす」ことに長けていても、基本、打たれると、相応に、それ以上に痛手を受けます。相手の感情を察知できることに長けている分、高感受の故に、損傷(ダメージ)は大きくならざるを得ません。これは仕方がないことです。

自分のこの性格、性質を完全に理解できたのは30歳前後だったと思います。

それまでは、とても辛かったです。『どうして自分はこんなに打たれ弱いのか。男のくせに。恥ずかしい。この仕事、向いていないのではないか。』と何度思ったかわかりません。

だから、僕は、一歩間違えば、早々に支援者の道を諦めていた可能性があったと、そのような危機に常にさらされてきたと思います。

ところで、自分が傷付かない方法としては、先に述べたように「かわす」方法があります。そして、僕の場合、「自分の過失によるものではない」と分かると、妙に割り切れて、RPG風に言うと、防御力が増して、回復力も増して、ひきずることもありません。

これも、三十代以降に身につけたことです。だから、それまでは本当に辛かったです。

支援者は、一般的に責任感が強い、応えようとする気持ちは強いと思います。そうでなければ、支援者にはなっていないはずです。

それが仇となって、「相手の厳しい言葉」の背景と要因を考えず、全て自分の責任、自分が悪いと思い込んでしまう(自己暗示)ことは、個人的によくあったと思います。

健気な支援者を装おうと思えばいくらでもできますが、それは良いことでしょうか。
某漫画の台詞ですが『愚直は美徳ではない』のです。

僕なりの表現ですが、支援において、状況と感情と役割は、きっちり、整理整頓しないといけないのです。支援者は状況を支配できる訳ではありません。当然ですよね。それにも拘らず、全てを背負い込むことは、ある意味、(自分の力が全て及ぶと考える)傲慢です。

クライエントにできること、支援者にできること、他の誰かができること、これらはきちんと線引きしないといけないし、仮に、良くない結果が訪れたとしても、予期し得ない、過失もないのであれば、誰のせいでもありません。

ただただ、人と環境をアセスメントして、介入方法を考えて、最小で最善の結果が得られるように、頭を使って考えるまでです。

僕がクライエントによく、『クライエントにとっても支援者にとっても、できること、できないことがある。無理なことを要求するつもりはない。その分、できることを頑張ってやっていきましょう』という言葉を言いました。

それは、当たり前のことなのですが、境界線を引くことで、互いに楽になり、どちらかが負い過ぎる事態を避ける意図があったと思います。

そんな訳で、不必要な傷付きを避けられる、軽減できる工夫もあります。
繰り返しますが、それでも尚、クライエントからの厳しい言葉を打つけられる場合はあります。

そこにはいろいろな事情が介在します。誰が悪いとは簡単に言えません。そして、ぶつけられた方は、確実に、痛く、苦しいと言うこと。

僕は男だから、泣いてはいけないと思い我慢するばかりでしたが、心の中では痛くてのたうち回ることはしばしばでした。

『心にも、痛み止めがあったら』と何度思ったことか。
結局、そういうのは、誰かに話すことでしか、軽減されなかったと思います。

完全に癒すには、そのケースにおいて、相手の感情も含めて疎通の齟齬を無くし、課題・問題解決に一定の決着をつけ、一旦の終結を見た時だったと思います。

ただ、世の中が混迷しているように、クライエントの抱える課題も深く、全てに決着がつけられる訳ではありません。だから、僕が自己流で、一人でやってきた対処が、もう通じない時代になっているのだと思います。

支援者の傷付きに対して、組織内のフォローはもちろん、外部カウンセリングの活用も、視野に入れて然るべきだと思います。

20年の医療ソーシャルワーカー経験の中で、最初の10年は、感覚的な言い方ですみませんが、まだ制度上も含め、組織内に余裕があり、社会全体もまだ余裕があったと思います。

ところが、後半10年は、どんどんそうではなくなったと思います。複雑化するクライエントの社会背景、支援機関に対して高まる要求、そんなマクロの中にあって、クライエント(及び家族)も時間的にも、精神的にも余裕がなくなってきていると、実感します。

僕のような年代は、まだ、ゆっくり専門職として育つことができたから良かったです。しかし、大変なのは、今の若い人たちで、高度な要求(制度から、組織から、クライエントから)にさらされて、どれほどの重圧と、(「かわし」を覚える前に)直接的な攻撃的言動にさらされているだろうかと思うと、いたたまれなくなります。

もちろん、若い方だけでなく、どんな年代、立場の支援者であっても、彼らを支えることが不可欠で、そのことがもっと、当然のように任意されないといけないと僕は考えます。

今回はここまで。
次回は別の傷付きについてお伝えします。

(次回に続きます)

投稿者

中田雅也

青森県八戸市。支援者のための、支援者のミカタ(味方) カウンセラー。Click  
元MSW(20年来)。ソーシャルワーク部門管理職、職能団体の長、所属組織の経営幹部を経験。 支援者(援助職、医療従事者、管理者等)への支援が必要と思い至る。
支援者にカウンセリングを。人々の日常にソーシャルワーク(カウンセリング)を。

投稿者プロフィール

中田 雅也
中田 雅也結い心理相談室
あなたのミカタ(味方となり、強みを再確認し、見方を再構成し、やり方を一緒に考える)となって、ソーシャルワーク&カウンセリングを駆使して、あなたの今ここからの歩みをお手伝いします。

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