ひとりを恐れるな

こんにちは。
普段使いのミカタ・カウンセリング&支援者のミカタ・カウンセリングの結い心理相談室です。

ちょいと考えさせられたSNS投稿。

何年前からだろうか。

「ぼっち」という言葉が遣われ始めたのは。

この言葉には、大きな誤解と語弊があると思う。

「ぼっち」の誤解と語弊。

それは、ひとりが悪い、という意味合いがあること。

何なら、ひとりでいることを揶揄している。

基本的に、ひとりにならなければ

深い思考も自己との対話もできない。

それよりも「人から孤独だと思われないための無駄な努力」をする羽目になる。

つまり、人目を気にすること。

そんなもののために、労力を費やし

上辺の浅い繋がりを保って、却って空しくならないだろうかと思う。

岡本太郎氏は、著書「自分の中に毒を持て」の中でこう言っている。

友達に好かれようなどと思わず
友達から孤立してもいいと腹を決めて
自分を貫いていけばいい。
本当の意味で皆に喜ばれる人間になる。

また、齋藤孝氏は、著書「孤独のチカラ」の中でこう言っている。

つるむ関係は、言わば談合状態だ。
「取り敢えず今のままの自分でいい」という易きに流れ、(略)

ひとりを恐れて、つるみ続けることしかできない方が問題だ。

状況と必要に応じて、他者と繋がることができればそれで良いのであって

常時、繋がりっぱなしは、僕は不自然だと思う。

残念なことだけれど、世の中は

SNS投稿にあるように、今は無謀に思える夢を笑う人たちが多い。

「いつまでも夢を見ているわけにはいかない」という状況があるのも確かだが

根拠の無い「常識」「世間体」で人を叩く構図があまりにも多い。

しかし、「それって本当に正しいのか」と突き詰めると

実は根拠がなくて、個人の思い込みだったり

大勢に受け入れられるかどうか、でしかなかったりする。

自分を見失ってまで、他人に合わせる道理はそうそう無いと思う。

むしろ、他人に合わせることで、ありのままの自分とはぐれ、不一致を来す危険がある。

だから、「自分を曲げろ」と言ってくる声とは、全力で戦って良いと僕は考える。

厄介なのは、「自分を曲げろ」とあからさまな言い方ではなく

「常識」や「良かれ」の助言をとおして、これらがなされることだ。

戦えば(貫けば)、どうしても孤独感は付きまとう。

しかし、それが普通なのだと思う。

今風に言えば、「ぽっち」にならないと、できないことがある。

それは必要不可欠なことで、それを恐れたら何も得られない。

そう教えることの方がよほど大事ではないだろうか。

自分が自分であることを曲げろという要求とは

断固として戦うといい。

それは戦う価値があることだ。

余談ですが・・・

「この世は戦う価値がある」という漫画があって

題名そのままに、自分を生きる姿を描いております。

生き方に迷ったら、特に読むことを勧めます。

投稿者プロフィール

中田 雅也
中田 雅也結い心理相談室
青森県八戸市・階上町を中心にカウンセラーとして活動しています。また、電話・オンラインカウンセリングもご利用いただけます。
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