体を張った優しさ

こんにちは。
普段使いのミカタ・カウンセリング&支援者のミカタ・カウンセリング 中田雅也です。

綺麗な手書きの投稿に目が留まり、その深い内容には、心が留まりました。

耳の痛い話は、誰だった好き好んで聞きたくはありません。

「確かに、自分は不十分なのかもしれない。けれど、そんなに言われるほど悪くはないでしょ。」

そのように思ったことはありますが、僕だけではなく、他の人にも共通する心理ではないかと思います。要は、耳の痛い話を、本当は聞きたくない。言われるとしても、オブラートに包んで欲しい。

臆病だな。自己愛が強いな。

自分でも、そう分かるのだけれど、どうしても勇気が持てない。

否、本当に心が調子が良い時、厳しい言葉でも受け止めることができる。しかし、心が整っていないと、それができないのだ。

役職が上がるにつれて、耳の痛い話、すなわち、真実を告げてくれる人は、だんだんと少なくなります。耳の痛い話を言うことも、実は勇気が必要だったりする。

立場ある人に、いさめる言葉を言うなんて、大変な自体が訪れるかもしれない。

それでも尚、言ってくるのだから、その意見は本物ということもあります。

役職が上がるにつれて、こんなにも周囲が自分に忖度してくるとは、思いもしませんでした。役職という職位は実に力があるのです。

しかし、勘違いをしてはいけません。力があるように見えても、あくまで職位という役割が、人々に支持することを許しているだけであって、役職についている人が優れている保証はないということを。

どんな役職についていようと、人である以上、必ず失敗はつきものです。むしろ、失敗をする前提で、耳の痛い話を聞かなければなりません。

余計な自信心を持たず、高慢とならず、しかしながら、相手の言いなりになるということでもなく、耳の痛い話を検証する。

それができる人は、すごい人だと思います。

僕は、率直に、時々は耳の痛い話を受け止めることは時々はできたけど、時には自信の無さから、時には高慢さから、耳を傾けることを恐れ続けたと思います。

もし、あの時、余計な思いを捨てて、それができたのなら、どんな結果が訪れていただろうか。そんな思いも、無い訳ではありません。

たくさん失敗はしましたが、だからこそ、耳の痛い話、すなわち、真実を告げる人の存在は貴重だったなと思います。

耳の痛い話をわざわざしてくれるのは、悪い方向に進んで欲しくない、より良くあって欲しいという優しさがあると、僕も思います。

優しいとは、決して表面的なことではありません。間違いを体を張って止める、そんな力強い優しさもあります。

そんな勇気のある優しさを自分も持ちたいものです。

投稿者プロフィール

中田 雅也
中田 雅也結い心理相談室
あなたのミカタ(味方となり、強みを再確認し、見方を再構成し、やり方を一緒に考える)となって、ソーシャルワーク&カウンセリングを駆使して、あなたの今ここからの歩みをお手伝いします。