定義付け
こんにちは。
日常の悩み事「普段段使い」のカウンセリングの結い心理相談室です。
数多いサイトの中から、当事業所の記事をご覧いただきありがとうございます。
僕が大事にしていること。
それは「定義付け」。
堅苦しいとお感じになるでしょうか、
しかし、敢えて言及するのは、何事も「定義」が大事で、定義を曖昧にすると、自分の感覚、他人の感覚に、自分自身が振り回されてしまうからです。
一例として、こちらの動画をご覧ください。
『失敗』の言葉を巡って、記者と選手とで齟齬が生じております。
この選手は『成功』はいつでも、必ずできることではなくて、『失敗』に見えたとしても、それは『優勝のためのステップだ』と主張しております。
僕は、これはとても素晴らしい主張だと思いました。素晴らしいだけでなく、妥当で、地に足ついた考え方です。
こちら(NHK)の記事によると
いま世界中でスポーツ選手の“心の不調”が問題になっています。
トップ選手だけでなく、アマチュアスポーツや部活動においても深刻な問題です。
という状態があるようです。
その根幹にあるのが
選手もその周囲の人も『外部の価値基準で決まる評価』=外的評価にとらわれやすい
という構造のようです。
僕は、これは、一般人にも顕著であると思います。
確かにスポーツ選手にこそ顕著かもしれません。しかし、一般人(僕も含めて)も他人の評価軸に流されて、目に見える成果とか、大多数に認められる方法や基準を満たしていなければ、駄目(失敗)と看做す風潮は、かなりあるのではないかと思います。
僕は退職前に、個人事業主を考えていると言った所、「きっと成功するよ」と言われました。
もちろん、これは善意であって、「あなたになら、きっとできる」という最大限の励ましであることは僕も十分に理解しております。
しかし、言われた時、微かに心の中に違和感を感じました。この違和感の正体とは果たして、何だったか。
それは『成功』の定義が、きっと僕と相手とで異なっていたからでしょう。
そもそも「成功」とか「失敗」という分類は果たして妥当なのか。何気なく使ってしまう言葉ですが、よくよく考えて使わないと、暗黙の内に誰かを「失敗」と分類しかねない危険が潜んでおります。
僕は、僕にとって、「失敗」をどう定義付けるか。
何も学べない(プラスの報酬も得られず、教訓も、経験値にすらならない)
何も活かせない、次に繋がらない
僕だったら、失敗をこのように定義付けます。このように考えると、実際には「失敗」とは、ほとんど無いのではないかと思います。
きちんとした目標や「成功」の定義を持っている程に、不毛な「失敗」には、そう簡単になり得ないと思います。
僕は、僕にとって、「成功」をどう定義付けるか。
自分に負けないで、逃げないでやり通した(成果は必ずしも必須ではない)
やった意味、手応えが十分にある(成果はおまけでしかない)
決して、ブログ用に取り繕ったわけではなく、本心です。これがあったら、僕はこれからも前を向いて、胸を張って生きていられるかな、と思うのです。
言い換えれば、僕は僕に対して「勝者」でいられる、です。
ちなみに、定義は人によって異なって当然です。
成果を一番にするも良し、過程を一番にするも良し。
要は、自分の人生に関わる重要な尺度は、自分の手から離してはいけないということです。
(公序良俗に反しない前提で)生き方に関わる規則、解釈は自分持ちでなければならない、とすら思います。
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