人前で話すのは苦手でした(一)
こんばんは。
題字の通り、僕は、人前で話すのは苦手でした。いわゆるスピーチ、発表などです。
ただ、苦手であることと、できないことでは、少し意味合いが違います。
今の僕は、得意と言うにはおこがましいので「人前で話すのは得意」とは自称はしません。また、「人前で話すのは好き」というほどの強い感覚もありません。
ただ、「人前で話すことは、できますよ」とは、胸を張って言えます。
この違いの意味は、「苦手で避けたい」という否定的な思いに打ち負かされることなく、その機会がやってきたら「やってもいいですよ」と前向きに捉えることができるということです。
支援者は、日常的に、一対一、または複数(少人数)に対して、面接等の手段で話をしているはずです。しかし、いざ、大勢の前となると、「苦手」と感じて、避ける人が多かったと思います。
僕も、そんな一人です。
いつか、役職に就いたり、組織の長となれば、嫌でも、大勢の人々の前で話す機会がやってきます。そうなってから訓練するのも有りですが、機会があれば、少しずつでも、講師等の経験でも良いので、経験しておくと、後々に大きな財産となって役に立つ(活きてくる)と思います。
今回も、複数記事に分けて、人前で話すことに慣れるに至った僕の経験を踏まえ、人前(特に大勢)で話せるようになるために大事だと思ったことを、書いてみようと思います。
恥ずかしさの原体験
僕は、性格傾向としては、内向的で、ハキハキ話す方ではありません。むしろ、恥ずかしがり屋で、人見知りで、おじさんとなった今でも、実はこの基本的性格は変わりません。
小学校の頃、日替わり交代で『日直当番』というのがありました。今でもあるのでしょうかね。朝の会、帰りの会のようなものがあって、日直は教室の前に出て、簡単な司会をさせられたと思います。
「させられた」という言葉が、自然と出てきてしまったのですが、やはり、苦手意識があって、できれば避けたいとの気持ちが根付いていたのだと思います。
つまりは、定期的にやってくる「あれ」が嫌でした。
あと、音楽の授業で、一人ずつ前に出て歌うことが、何回かあったのですが、なぜだか、恥ずかしくて仕方がなくて、蚊の鳴くような声しか出なくて、顔から火が出そうで、もう消えてしまいたいと思うくらいでした。
そんな気持ちで心が一杯になると、余裕がなく、不安で、客観的にも「あわあわする」していたと思います。
自分の性格傾向と、こういった原体験があって、ますます人前に出るのは大嫌いになりました。
中学生くらいになると、生徒会の役割の人が、体育館にある演壇に立って話をしているのを見て、あんな恐ろしい所に絶対立ちたくないと思ったものです。
基本的に、目立たずに、静かにしていることに安心感を覚えるような子どもであったと思います。
ただ、それでも、今だからこそ言えるのは、「人は苦手でも、慣れることができる」という、すごい適応能力を持ち合わせているのです。
だから、同じようなことで気に病んでいる方がいれば、「苦手と、できないは違う」ということをぜひ、知っておいて欲しいと思います。
「好き好んでしたくはないが、いざとなればやれる」と思えるだけで、人前に立つ恐怖心や苦手意識は、ほぼ、無くなります。(個人の感想)
ちなみに、小学校、中学校、高校生までは、人前で話すことは、ほとんどしたことがありません。
議論(ディスカッション)が怖い
大学生の時、ゼミで『議論をする』機会が何度かありました。十数人くらいの人数で、ある題目に沿って、自由に、自分の意見を言うというものです。
はっきり言って、恐怖に近い感情を覚えました。
発言が少ないと教員に注意されるため、かなりの重圧でした。僕以外のゼミ生がみんな、積極的に、物おじせず、いろいろな発言をしているのを尻目に、相変わらず僕は、心臓がドキドキして、あわあわしておりました。
自分が、内向型の性格に属する性質を持っていると分かれば、こう言った場はそもそも苦手という理解があって、それに対する備えも前もってできます。
しかし、当時は、そんなことも全くわからないので、「自分だけうまく話せない」と、かなりの劣等感に苛まれ、それを周囲に悟られるのも恥ずかしくておりました。
だから、いわゆるポーカーフェイスを装って、その場を何とか切り抜けることがしばしばでした。自分は何でこうなのだろうと情けなく思うことは何度もあったと思います。
強みに着目できた原体験
しかし、転機が訪れます。
ある時、ゼミの教員から、課題図書を読んで、それに関する小論文を書くように、との課題指示がありました。当時、文章を書くことにも苦手意識があったので、気持ちは前向きになれなかったのですが、自分が感じたことを何とか書き記しました。
そうしたら、なぜか担当教員は僕の書いた小論文を絶賛してくれました。そんな風に褒められたこともなかったし、そんな褒め方をする教員でもなかったので、あっけに取られました。
課題図書は、ある作家の自伝小説で、「人生観」「生き方」に関わる内容がふんだんに書かれておりました。
その分野の話は、僕も好きな題目であったことと、個人的に人間存在や生きることの意味について、哲学的なことを考えるのが好きだったので、自分の感性の赴くままに、これまで考えたことをただ素直に言葉にしました。
内容の詳細は忘れましたが僕の「感性」について、褒めてくれたと記憶しております。僕にとっては、「感性」というものを生まれて初めて承認してもらいました。
その時に、初めて気が付きました。僕の感性は、誰かに認められるに値するのだ、と。
今となっては、僕の強み(ストレングス)を見出だして、承認してくれたのだと思います。これは、とても大事なことで、全く自信がなかった僕でしたが、自分でも信じて良い自分の力がある、と思えることが、どれほどその時の僕を支えてくれたことか計り知れません。
また、その後の人生においても、この時の経験に立ち返り、自分を信じるという行為を何度もする、大事な足がかりになった経験だったと思います。
当時、はっきりと認識できていたわけではありませんが、人前に話すのも、議論も苦手だけれど、僕には僕の、人に認められる感性があるのだから大丈夫、という確かさを得ていたのだと思います。
ここから学べることは、自分では駄目、できない、自信がないと否定的な感覚にとらわれていたとしても、自分の力を信じるだけで、がらっと変わり得るということです。
強みは、人それぞれ。誰にでもその人にしかない強みがあるはずです。ただ、それに気づかないだけ。
また、それをさらに磨く鍛錬が不可欠ですが、前向きなことならば、いくらでも頑張れるのだと思います。
更に言えば、僕は内向性が強いので、会話よりも、じっくりと考えて、自分と向き合って文字に表す方が、どちらかと言えば自分の考えを上手く表現できる方です。それが上手く、はまったのでしょう。
たまに、同じような系統の人を見ると、とても嬉しくなります。また、雰囲気で何となく分かったりします。
(次回へ続く)
投稿者プロフィール
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青森県八戸市・階上町を中心にカウンセラーとして活動しています。また、電話・オンラインカウンセリングもご利用いただけます。
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