物語の押し合い
まず、物語(ナラティブ)を「語り手自身が紡いでいく物語」と定義してお話しします。
ある時、某職種の職場紹介のフェイスブックページを偶然、目にしました。
その中で、お昼休み中の食事の風景が写真と共に掲載され、大勢で顔を突き合わせて楽しく食事をして、学生時代の思い出話に話を膨らませているといった趣旨のことが書いてありました。
個人的には、少なからず引っかかるものがありました。
大勢で話をして楽しむ前提、昼休みに少なくない複数人の同僚との食事が楽しいという前提がそこにはありました。
確かに、話をすれば楽しいこともあります。誰だって、程度の差はあれど、人は話したい生き物だと思います。皆で食事を摂ること自体には、ありふれた光景かと思います。
しかし、その某職種は精神的にも過酷な職種であり、果たしてその光景は多くの日常に当てはまる光景なのか、疑問に思うことがあります。あたかもいつもそうしているかのような印象も受けました。
自分がその立場だったら、午前中の心身の疲労を軽減するために、静かに過ごしたいと思いまいた。
元々が職場紹介のページだったので「和気あいあい」を表現したかったのだとは思います。ぱっと見た時、確かにその方が、多数にとっての見栄えや印象も良いとは思います。
ただ、僕のような内向的な人間は、そういった場面を見ると、「また無理して適応しないといけない」と思って、少し気後れしてしまうのです。
言い出したらきりがありませんが、「皆で楽しく」と「静かに過ごせる環境がある」とでは、明らかに前者が強調されるだろうと思います。
「職場紹介」という「広告」であれば、当然、万人受けを狙うからです。自分が広告する側であれば、やはり同じこと選択するかもしれません。
ただ、その選択が外交性優位を良しとする人々の物語の強調に繋がり、内向型人間にとっては、いささか居場所が損なわれるような危機感を感じてしまいます。
言うまでもありませんが、集団には、いろいろな性質の人々がおります。
単純な物言いですが、上記の枠組みで言えば、どっちかに合わせろというのは乱暴です。それは、言わば、物語の押し合いです。
語り手が異なれば、複数の物語が存在し、それらが交わる保証はありません。
要は、どっちが主になって発信されても良いけど、違う志向のある者の居場所はきちんとあるのだよと言われたのなら、百点満点の広告だと思いました。
こんなことにわざわざ反応する必要もないのかもしれませんが、無理して合わせてきた歴が長い分、無理せずにいられる場や雰囲気がもっとあったら、過ごしやすかったと思うことが今でも多々あります。
だから敢えて、「いちゃもん」に近いかもしれませんが、言及してみました。
集団は、人と人とで構成されます。単一の物語に括られても宜しくなく、複数の物語の押し合いとなるのも不毛です。この匙加減はとても難しいですね。
とかく「合わせろ」「従え」の不文律が実社会には多いと個人的には感じます。秩序を乱さない範囲ではありますが、自分が自分であることが許容されたなら、どんなにか過ごしやすいことかと思います。
「人間」とは、文字通りに「人」と「間」で構成されます。この「間」の活かし方によって、窮屈か、過ごしやすいかの明暗を分けるような気がしてなりません。
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