社会軸と自分軸

こんにちは。

考えさせられたSNS投稿を見かけました。

僕は、うつ状態は経験してもうつ病を経験したことはありません。だから、安易に分かった風なことを言うつもりはありません。それでもこの投稿には共感するものがあります。

具体的には『世の中は健康な人が中心で回ってる。その中に自分が入れていないことに気づいて「疎外感」「焦燥感」を覚える。世の中の輪から外れて戻れない「挫折感」「罪悪感」も一緒についてきて』という箇所です。

投稿の真の意味は投稿者にしか分かりません。だから、ここでは僕が考えたことを書きます。

体調を崩したり、精神的な不調で数日休んだ経験はあります。その時、仕事に行くことができない自分がとても惨めに感じました。みんな、今頃はバリバリ働いているのに、自分は何をやっているのだろうと思ったことは何度かありました。

ただ、よくよく考えると、調子が悪い時は休むのが当然で、なぜその状態においても自分は罪悪感のようなものを感じてしまうのだろうか、これは自分の問題ではなく、そう思わせる社会の雰囲気や風潮の問題ではないか、と思います。

元気に学校に行く、元気に仕事に行くことしか許容されなくて、何かしらの原因で学校に行けない、仕事に行けないことを良しとしない雰囲気が、知らぬ間に自分の中にも植え付けられていたと思います。みなさんはどうでしょうか。

元気であることも、そうで無いことも同じように許容してほしい、と思います。

もっとも、直接的に誰かから責められたことがあるわけではありませんが、「そうして当然」の雰囲気は知らない内に心の中に「社会規範」のような規律を勝手に作り、それを遂行できなくなると、急に自らを責め出すのです。厄介ですね。

個人の考察ですが、こんな仕組みが働いていると感じます。

前職を退職後、溜まりに溜まった有給休暇を消化している時、実はそわそわして落ち着きませんでした。あんなに待ち焦がれた自由な時間だったはずなのに、自分もみんなと同じように働いていないと落ちつかないという感覚を味わいました。

おそらく多数に合わせる生き方をずっとしてきて、自分を軸にした生き方を疎かにしたために、時間の使い方も含めて、生き方をも、一時的に見失ったのではないかと自分では思います。

個人事業主になったばかりの時も、時間の自由、働き方の自由があって、勤めている時とは感覚が全く違うため、いわゆる朝の出勤の交通渋滞を見ると、昔を懐かしんで若干の物寂しさを感じたりしました。これは定年退職した方に多い症状だそうです。

自覚していなかったけれど、世の中の皆がしているように、自分も大勢の中で勤めていたことに(勤めていた時は)安心感を覚えていたのだと初めて認識できました。

『どんな自分であっても、自分は自分で良い』はずなのですが、最初はなかなかそうは思えなくて、疎外感を感じたことは確かです。

ただ、慣れてくると、もう自分の道しか歩きたくなくなるので、この感覚を掴むまでが大変かもしれません。

今に至っては、なぜ世の多数の感覚に合わせなければいけないのかとさえ思えるようになりました。

言うなれば、社会軸と自分軸の二つがあって、どちらに偏り過ぎても社会生活は難しいです。

僕は多分、社会軸が強くて、自分軸を(無自覚に)疎かにしたので、一つの社会属性(機関に所属する)が無くなった時に自分の保ち方を見失ったのだと思います。

もしかすると、うつ病になって、疎外感や焦燥感を感じる心理と似ているのかもしれません。自分軸を構築(再構築)するにはいささか精神的な力を要すると思います。だから、精神的な状態な低下してから行うよりは、余裕のある平時より考えて自分を整えるのが最善だと思います。

そうは言っても、「上手くいかない」と感じて初めて、自分を見つめ直すのがほとんどかもしれませんが。

だから、考える機会が来た時が考えどき。それでもいいじゃないか。

要は、自分は自分であって良いし、自分を取り戻し、社会の中にこれまでとは違う居場所や居心地を見つければ良いのではないでしょうか。SNS投稿から、そんなことを考えました。

投稿者プロフィール

中田 雅也
中田 雅也結い心理相談室
青森県八戸市・階上町を中心にカウンセラーとして活動しています。また、電話・オンラインカウンセリングもご利用いただけます。
普段使いのカウンセリング(日常の悩み事)と援助職のためのカウンセリングをご提供しております。

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